整体院の名前SEITAI CLINIC

自分のからだを、知ることから。

からだと、
向き合う時間。

日々の暮らしに、ほっとひと息。
あなたのペースを大切にする整体院です。

整体院について読む

LAYOUT SAMPLE 院名・文章はすべて仮置きです

JOURNAL & GUIDE

整体院からのご案内

はじめての方へ。
当院について、少しずつお伝えします。

01 / ABOUT US

記事1はじめに

はじめに

本書は技法の手引書ではない。私の前著『脊柱マニピュレーションをわかりやすく』は、まさにその種の本である。しかし、同種の手引書と同じく、避けがたいこととして、評価によって集めたすべての情報に優先順位をつけ、介入を適切な順序に配置した、一貫性のある効果的な治療戦略へとまとめる方法を示すことはできない。要するに、技法の手引書は、どこに働きかけるかは教えてくれるが、いつ、どのような順序で働きかけるかは教えてくれない。熟練した徒手療法家は、長年にわたり効果的な治療戦略を組み立ててきたため、どのようにそうしているのかを、もはやあまり考えなくなっている。自分が何をしているのか説明を求められれば、治療の開始時、実施中、終了後に評価を行うことの重要性を強調することが多く、それは正しい。しかし、固着や機能障害のパターンを、驚くほど正確に、並外れた仕方で知覚していることを言い表すとなると、たいてい言葉に詰まる(機能障害や病気が本来持つ関係的な性質を捉えるため、私はこれらを「秩序を妨げるもの」と呼ぶ。この言葉については第2章で詳しく述べる)。こうした卓越した知覚の技能は、ほとんど理解されておらず、語ることもきわめて難しい。そのため、臨床での意思決定の過程を明らかにしようとするほぼすべての試みにおいて、どのように見るのかという探究が抜け落ちてしまう。そうした試みの後で、何か大切なものが欠けているという漠然とした感覚を抱き、途方に暮れることが多いのも、それほど不思議ではない。

経験豊かな施術者の多くは、身体の秩序を妨げるものの内へ、またそれらを通して、局所的にも全体的にも、しかも同時に見通し、感じ取る、並外れた能力を示す。局所的な秩序を妨げるものが解放される過程と、身体が自らを再編成していく際にその解放が身体全体へ及ぼす影響との両方を追うことができる。その知覚の力量は、初心者を驚かせ、当惑させると同時に、質問の洪水を引き起こすことが多い。「なぜ、あそこではなく、ここに働きかけたのですか」「どうしてそれが見えたのですか」「左脚の内転筋の付着部と後頭骨の底部に関連があると、どうしてわかったのですか」といった質問である。しかし、そうした並外れた知覚の技能がどこから来るのか、経験豊かな施術者も、それを学びたい初心者以上に理解しているわけではない。時には、言葉が見つからないことで自分の力不足を感じ、苛立って、「ただ見ればわかるでしょう?」と答えることもある。この答えは、すべてを直観で片づけてしまうのと同じくらい役に立たない。こうしたやり取りでは、気の毒な初心者は、経験豊かな施術者が見たものを見るにはどうすればよいのか、何の手がかりも得られないまま取り残されるのが常である。

徒手療法では、熟練した知覚があらゆる評価の核心にあり、実践の中心にある。ただし、「知覚」や「見る」という言葉の意味を、視覚だけに限定しないよう注意してほしい。本書を読み進めれば、私たちは感覚だけにとどまらない仕方で知覚できることがわかるだろう。クライアントを悩ませているものが見えなければ、徒手療法を行う準備はできていない。熟練した知覚と、徹底した評価を行えることは、治療の過程に不可欠である。だが、身体が示そうとしているものを見ることなく、関節の制限を探したり、「硬い」筋膜を見つけたり、症状を列挙したりすることだけに評価を狭めてしまった傍観者でいることをやめるには、施術者をどのように訓練すればよいのだろうか。可動域を客観的に測定すること、クライアントが地点Aから地点Bまで歩く時間を計ること、あるいは単に、頭が前に出すぎている、脚の外反が強すぎると指摘することは、比較的単純で容易である。しかし、たとえば、ある人の腰痛と結びついた、怒りを帯びたエネルギーや筋膜のストレイン・パターンを見る能力は、どこから来るのだろうか。どうすれば私たちは、並外れた見通す力を持つ者になれるのだろうか。あるいは、より端的に言えば、どうすれば目を向けるだけのことをやめ、本当に見始めることができるのだろうか。

これらの考察は、クライアントの全体性を見ることが不可欠な、全体性を重視する徒手療法の実践にとって、とりわけ切実な意味を持つ。全体性を見ることは、断片的な評価よりもはるかに難しく、はるかに包括的である。それは美的鑑賞に最も近い見方であり、細部のうちに全体を一度に見ながら、見るという行為そのものに参与し、その中で自らをさらに広げ、深めていかなければならない。存在するものが自らをあなたに示せるようにするには、見物人や傍観者としての立場を手放さなければならない。また、単純に主観的とも客観的とも分類できない、あらゆる種類の現象を見る覚悟も必要である。自分の感覚を信頼することを学び、知覚の鋭さと活力を育て、現れてくるものが何であれ、それに開かれ、受け入れる姿勢を保たなければならない。

全体性を見ることが、施術者の身につけうる最も重要な技能の一つであるという点には、おそらく大半の施術者が同意するだろう。徒手療法にとって知覚がこれほど重要であることを考えると、その理解と育成に向けられる注意の少なさには驚かされる。残念ながら、それはほとんど理解されておらず、熟練した知覚を育てることに特化したワークショップを見つけるのは、ほぼ不可能である。

利用できる教材に何が欠けているのかに気づくと、私は、自分で学べる訓練課題を作ろうと取り組み始めた。その結果が、禅、ロルフィング・ストラクチュラル・インテグレーション(ロルフィングSI)、哲学、現象学に長年取り組む中で得た洞察を基にした、簡単な3段階の練習である。しかし、群を抜いて力強い洞察を与えてくれたのは、ゲーテと、彼が「精密な感覚的想像力」と呼んだ見方だった。ついに私は、見るという技を学生に教える方法を見つけたのである。繊細で洗練された知覚能力を持つアドバンスト・ロルフィング指導者、レイ・マッコールの協力を得て、私たちは共同で、見ることについてのワークショップを教えた。この練習の哲学的背景は第6章で、練習そのものは第7章で紹介する。

知覚の理論と実践に加えて、臨床での意思決定の過程を理解しようとする大半の試みに欠けていた、もう一つの決定的な要素がある。介入の原理についての、実際に使える知識である。知覚は重要ではあるが、それだけでは介入をどのように順序づければよいのかを示すには不十分である。徒手療法の文献で最もよく使われる言葉は「原理」だと言っても、誇張ではないかもしれない。しかし、「原理」という言葉をどの意味で使っているのかを示す記述は、どこにも見当たらない。そのうえ、大半の理論家が介入の原理として列挙しているものは、実際には介入の原理ではまったくない。第3章と第4章は、この状況を改善するために設けている。

この議論の焦点をより鮮明にするため、シャーマンであれ外科医であれ、あらゆる治療者が直面する3つの基本的な問いを掲げることができる。最初に何をするのか、次に何をするのか、そして、いつ終えるのか。これらの問いに答えるには、技法を巧みに使えること、徹底した評価ができること、知覚の仕方について訓練を受けていること、そして介入の原理と、それを治療の場で適用する方法を知っていることが必要である。本書は、この4つの必要をどう満たすかを示すために書かれている。

「合理的」という言葉の意味は、きわめて示唆に富んでいる。それは、原理に従って考えることを意味する。ロルフィングSIを定型的な手順から解放し、それに代わる、原理を中心とした合理的な意思決定の過程を生み出そうとして、上級アドバンスト・ロルフィング指導者のヤン・サルタンと私は、アドバンスト・ロルフィングのクラスをともに教える中で、介入の原理を作り上げた。同じく上級アドバンスト・ロルフィング指導者のマイケル・サルヴソンが、後に必要な改良をいくつか加えた。本書の一部では、私たちが作り上げたものの詳細を示し、それをいかに有効に活用するかを述べる。

私はロルファーとして訓練を受けている。当然と思われるだろうが、ロルフィングは本書のあちこちで話題になる。私が挙げる事例の多くは、ロルフィングを受けた人々のものである。しかし、読み進めればわかるように、本書は徒手療法についての本であって、ロルフィングについての本ではない。徒手療法は、私たちが身体を生きて直立するあり方をケアし、高めることの理論と実践に関する、包括的な探究である。ロルフィングは、包括的な徒手療法の多くの分野の一つにすぎない。ロルフィングではないあらゆるものとの独自の違いを示すために、ロルフィングの本質とは何かを語ろうとすることに、私は関心がない。結局、独自であるということ自体に、何か独自なものがあるわけではない。力は、共通するものの中にある。したがって、本書が扱うのは、すべてのロルファー、セラピスト、徒手療法家、医療従事者が直面する種類の、哲学的かつ実践的な問題である。これらの問題は普遍的なものであり、ロルフィングや徒手療法だけに限られるものではない。

西洋哲学が心身問題に取り組むようになったとき、身体よりも心を脱構築することに、はるかに多くの注意が向けられた。私はその探究の順序を逆にし、身体から始める。ただし、私のアプローチは、哲学者が心の代わりに身体に向ける、頭の中だけの概念的なアプローチではない。そうではなく、徒手療法を受ける過程で、主観的に自らを明らかにする身体から出発する。哲学の教授であった私は、諸学の女王である哲学に十分に親しみ、深い敬意を抱いている。こうした事柄への私のアプローチが哲学に支えられているのは確かだが、長年にわたり禅を実践し、「心の道の果て」を探究してきたことで、その限界にも同じくらい慎重になった。その結果、クライアントの身体の主観性が、セラピストの主観性に向かって、その必要をどのようにささやくのかに注意を向けることを学んだ。このささやきに耳を傾ける方法を探ることに長年を費やしてきたので、このきわめて実践的で、手を通したアプローチのほうが、概念的・哲学的なアプローチよりも、本書の内容と文体に深く影響している可能性が高い。

本書はまた、中国の人々が円環的思考と呼ぶ思考様式を、ゆるやかに用いて書かれている。それは、全体性を持つ現象の本性を明らかにする思考の仕方である。円環的思考を行うとは、全体性に即して考え、知覚することである。全体論は徒手療法と生物学的秩序の核心にあるため、本書では詳しく論じる。全体性に即した思考は、その対象の周囲を絶えず巡り、その過程で新たな情報を加えながら理解を深めるので、時には繰り返しが多すぎるように見えることがある。しかし、全体性を持って組織された、感覚する身体においては、すべての道が全体性へと通じている。円環的思考に特徴的な繰り返しは、理解を深め、広げることに役立つのである。

私たちが十分に気づいているかどうかにかかわらず、それぞれの徒手療法をどう実践し、どう理解するかは、しばしば、検討されないまま混乱を生む哲学的な前提に基づいている。私たちの世界の見方に最も大きな影響を与えているものの一つは、ルネ・デカルトの哲学と、形而上学的二元論と呼ばれるようになった理論である(この理論についての議論は、特に第1章と第6章を参照)。私たちの世界の見方に対する彼の影響は、広範に及ぶと同時に、歪みをもたらしている。その程度は、私たちの多くが、全体性を重視する徒手療法の核心にある見方と相容れない現実観を受け入れてしまうほどである。熟練した全体的な評価は、容易には客観的なものと位置づけられないため、疑いの目で見られ、個人特有の主観性の一形態とみなされることが多い。

本書は、徒手療法のメタ理論に関する研究とみなしてもよい。しかし、何よりもまず、全編を通じて哲学に支えられた哲学的著作として見られなければならない。先に述べた形而上学的二元論、知覚の本性、人間の自由の本性、身体を生きること、そして私たちの真の居場所を求める探究といった、高遠な主題にも触れる。また、古くからの心身の難問を解くための、最初の一歩となりうるものも提示する。その道すがら、全体性を重視する徒手療法が、いかに私たちをヌミノースなものへと開きうるかにも足を延ばす。こうした実存に関わる問題の大半は、徒手療法家が日々の活動で直面する通常の実践的な問題を超えている。しかし、クライアントにとって、こうした、より実存的な問題が表面化するとき、徒手療法は、自分自身や世界と和して生きる幸福な人であるとはどういうことかについて、貴重な洞察を明らかにする。徒手療法は私たち自身について多くを教えてくれるため、これらの実存的な問題は本文の中に緊密に織り込まれ、私たちがそれらをどのように経験するか、すなわち、その経験が私たちにとってどのように感じられるかという観点から扱われる。そのため本書は、徒手療法を実践してはいないものの、主観性の科学が徒手療法として実践されるときにどのような姿をとるのかに関心を持つ人々にも、興味深いものとなるはずである。

私は、デカルトの哲学が決して認めることも、その価値を理解することもできなかった種類の現実と知覚に、場所を与えるために本書を書いた。私は一筋の思考をたどった。最初は、ほつれた糸をつかむような感じだった。その糸を引くにつれ、デカルト的な世界観がほどけ始めるのを感じた。糸の先で私は、モーリス・メルロ=ポンティが最初に明らかにした、感覚する(自らを感じ取る)身体を見いだした。やがて、自分が「感覚する身体」と呼んでいるものは、意識が身体的な出来事であることの明瞭な実例なのだと気づいた。その結果、意識と身体は、もはや互いに排他的で、共通の尺度を持たない二つの存在論的な類型ではなくなった。感覚する身体、あるいは自己へと折り返す肉の発見は、デカルト的な世界観の支配を覆すうえで、決定的な一歩である。本書の探究にとって、感覚する身体が持つ重要性は、第8章で取り上げる。

まだなすべきことはあるが、デカルト的な世界観を脇に置くことを正当化できるほどには、すでにその糸はほどけている。その結果、私たちの全体的な評価や見方が、たとえ主観と客観の枠組みに容易には収まらなくても、感覚が明らかにするものとまったく同じだけ真実に即しているのだと、確信してよいのである。

デカルトが知ることの確実性を求めたのに対し、私は、存在することの確実性を追求することに、より強く惹かれた。すなわち、自分の身体へ帰ることに特徴的な、明晰で、動じない落ち着きを育むことにである。この理解の水準では、徒手療法の実践は、主観と客観の区別が設ける境界を、その区別に対立することなく超えて、私たちの人生にとって何が真実であり、何が可能なのかを、反省以前の次元で探究する実験室となりうる。クライアントにとって、継続的に徒手療法を受けることは、身体を生きる経験を豊かにし、自己の成長と自由の展開をさらに進める助けとなりうる。

02 / APPROACH

記事2第1章 帰郷、第1部

第1章 帰郷、第1部

この広大な宇宙に存在するあらゆるものの中で、私たちに最も近いもの、すなわち私たち自身の本性ほど謎めいたものはない。私たちは自分を、抽象的な思考も複雑な感情も持ちうる、意識ある存在だと知っている。しかし、意識とは何か、あるいはそれがどのように存在するのかを語ろうとした途端、哲学的な混乱の泥沼に巻き込まれてしまう。自分たちの感情を理解しようとする場合も、事情はそれほど変わらない。だが、おそらく最も捉えがたいのは、私たち自身が身体を生きているということだろう。それをつかもうとすればするほど、いとも簡単にすり抜けていく。

私たちは、身体を生きる存在である。これ以上に明白なことがあるだろうか。大きな悲しみを経験するときも、抑えきれない喜びを経験するときも、その経験をするのは私たちの身体である。身体が動かされて笑うのでなければ、冗談がわかったと言うだけでは十分ではない。冗談がわかるとは、その冗談に笑うことである。同様に、ある音楽を聴いていて、それに心身を動かされないのであれば、おそらくその音楽を味わってはいない。これまで想像された最も深い三昧から、これまで思い描かれた最も知的な経験に至るまで、身体はいつも参与している。経験について語ることは、すでに身体について語ることなのである。

それにもかかわらず、西洋哲学の歴史にざっと目を通すだけで、私たちの身体的な存在に対する、きめ細やかな注意が驚くほど欠けていることがわかる。身体を生きるとはどういうことかという検討の代わりに、身体を蔑む言葉には事欠かない。身体は、より知的な、あるいは精神的な関心の邪魔をする、厄介なものとみなされることが多い。ニーチェが述べたように、「人間に腸があるという事実さえなければ、人間は自分を神だと思うだろう」。すべての経験が身体的であることを考えると、私たちの身体的な本性についての持続的な哲学的理解が、20世紀まで現れないのは、実に驚くべきことである。このような歴史的遺産を前にして、私たちは立ち止まり、探究の全過程を通して、自分たちの前提を慎重な検討に付すことを忘れないようにしなければならない。

私たちの身体理解の根は、約2500年前、西洋哲学の黎明期に、プラトンが心と身体は別々の実体であるという見解を提示した時まで遡る。この見解は形而上学的二元論として知られている。アリストテレスは、心と身体の関係は操舵手と船の関係に等しいと述べ、プラトンの立場を鮮やかに言い表した。プラトンは、私たちが身体を丹念に世話することを勧めていたので、苦行の衣を着るような禁欲主義者では明らかになかった。しかし、私たちが身体を生きることを、とりわけ好意的に見ていたわけでもない。彼は身体を心よりも低い次元の実在と考え、身体は魂の牢獄であり、魂を損なうものだと主張した。数世紀後、ガリレオとデカルトは、身体は柔らかな機械であるという考えを形而上学的二元論に加えた。これを受けて、20世紀の哲学者ギルバート・ライルは、デカルトの見解における人間とは「機械の中の幽霊」であるという、巧みな評言を述べた。これから見るように、形而上学的二元論は多くの批判的な検討を受けてきたにもかかわらず、その最も問題の多い前提のいくつかは、なお私たちの身体観を形づくっており、したがって、治療がどのように施され、クライアントに受け取られるかにも影響している。そのため、徒手療法についての探究の始めから終わりまで、私たちは、形而上学的二元論に結びついた、広く浸透している問題のある前提を絶えず問い直すだけでなく、重要な概念のいくつかを改めるための可能な方法も提案していく。また、介入の原理と、全体性を重視する徒手療法のアプローチにおいてクライアントを評価するために必要不可欠な知覚の技能を訓練する、3段階の方法も示す。

症状から自己発見へ

クライアントが徒手療法家の施術を求めるとき、通常は、自分の機能の改善を望んでいる。身体の痛みを和らげたいのかもしれないし、より協調した動きができるようになりたいのかもしれない。こうした目標が達成されると、満足したクライアントは治療を終える。痛みから解放されても、根本的な意味では何も変わらないクライアントもいる。一方で、治療によって劇的に変化し、人生が思いがけない新たな方向へ進むクライアントもいる。明らかに、その人たちの治療は、単に症状を処置し、病気を治し、腰痛を取り除くだけのものではなかった。それはまた、実存的にもっと包括的で、強く人を動かす何かに関わっていた。自己を全うすること、成熟し、本来の自分になることにも関わっていたのである。そして、自分自身を見いだす中で、自分がどこに属するのかも発見する。「触れる」という言葉には、「火をつける」という意味もある。受けた、触れることを基盤とする療法が、自己を知り、明らかにするという古くからの探究に、彼らの内で火をつけたことは明白である。

結果におけるこうした劇的な違いは、治療への根本的に異なるアプローチによって生じる。実に多くの施術者は、症状を断片的に処置することで、クライアントの問題を和らげようとする。これから見るように、こうした施術者が、身体は柔らかな機械だと信じる形而上学的二元論者である傾向を持つことには、重要な意味がある。それに対し、全体性を重視する施術者は、クライアントの全体に調和、秩序、均衡をもたらそうとする。ロルフィングの場合には、さらに一つの要件が加わる。重力の中で、身体と環境の統合を促すことである。

どちらのアプローチもクライアントの身体の痛みを和らげることができるが、全体性を重視するアプローチは、単に症状を軽減するための取り組みというより、自己を全うすること、つまり、どうすれば本来の自分になれるかを学ぶ教育に近いものとなりうる。全体性を重視するアプローチでは、症状を無視したり、重要でないと考えたりするわけではない。症状は過程の中で扱われるが、孤立した出来事とはみなされない。症状は、より大きなパターンの変容として理解される。中心となるのは症状ではなく、重力の中で統合された均衡が欠けていることと、より大きなストレイン・パターンが身体全体に及ぼす影響である。全体性を重視するアプローチは、痛みを和らげ、機能の効率性と正常な協調運動を促すことに優れている。しかし、それはまた、成熟した自己が全うされる過程を加速させる可能性も持っている。成熟の過程が速まることで、クライアントは自分自身にさらに深く触れるようになる。自らの自由をますます自分のものとするにつれて、自分自身と世界における自分の居場所を見いだす喜びを、ますます経験するようになる。

全体性を重視する徒手療法になじみがなければ、そのようなアプローチに、これほど全体に及ぶ変化をもたらす力があると知って、驚くかもしれない。実際には、このような広範な変化をもたらすことのできる、全体性を重視する療法はかなり多くある。全体性を重視するアプローチは、機能不全を伴う過去に私たちを縛りつけるパターンを消し去ることで、未来に新たな可能性を生み出すことができる。身体を根本から形づくり直し、感情的な苦悩の入り込む余地をなくすこともできる。痛みからあなたを解放することができる。喜びを解き放ち、物事の真の本性に触れさせることができる。優美に動く方法を教えることができる。心を開き、ヌミノースなものへと導くことができる。

もちろん、全体性を重視するアプローチを受けるすべての人が、同じ結果を得るわけではない。その療法が目指す調和、秩序、統合された均衡の経験は、浅いこともあれば深いこともある。全体性を重視する療法が時に到達する高みに向かう準備ができていない人や、それに関心を持たない人も多い。痛みから解放されたいだけの人も多い。しかし、準備のできた人にとって、それは解放の経験となりうる。この経験を捉えるよい方法は、帰郷という比喩を通して見ることである。

自らの感じる本性に目覚める

ブッダは、「足が地面を感じるとき、足は足を感じる」と語ったと伝えられている。この言葉によって、彼は意識の自己へと折り返す性質を明確に認めていた。機械的な装置とは異なり、生きたものが何かを感じ取るとき、それは、感じ取っている自分自身をも感じ取る。どれほど原初的であろうと、どれほど複雑であろうと、自己へと折り返すこと、すなわち自らを感じ取ることができるなら、それは感覚性を備えている。感覚性は、すべての生き物に共通している。人間の意識について言えば、それは感覚性のきわめて複雑な展開が、言語の進化と結びつくことによって生じると言える。感覚性という考えと、感覚する身体の発見については、第8章で再び取り上げる。

私たちは感覚性の大海の中で生きている。しかし、私たちの意識は、現実を狭く客体化する見物人の立場に支配されているため、感じることを通して集められる情報を、もはや信頼しなくなっている。私たちは考える生き物である。しかしまた、感じることを通して知覚する卓越した能力を備えた、感じる生き物でもある。第7章に記す、全体性を見るための3段階の練習を実践すれば、この能力を自分で発見するだろう。その練習を続ければ、身体全体で知覚できることがわかるだろう。考えることと感じることは、自分の身体という感覚する全体の、互いに溶け合うように関係した二つの側面なのだと、自らの経験からわかるようになるだろう。

感じることを通して知り、知覚するこの能力を表す言葉はない。私はこれを、私たちの「感じる本性」と呼ぶ。部屋に入る直前、何かがおかしいと正確に感じ取った経験が、あなたにもあるかもしれない。もう一つのよくある経験は、見られている感じがして振り向くと、誰かが自分を見つめているのに気づくことである。これらは、感じる本性が働いているときの、数多くの可能な経験のうちの、わずか二つの例にすぎない。感じる本性は、身体の隅々に生きる知覚の器官として働きうる。それは、特定の情動や感情だけに限定されない。この情動、あの感情といった個々のものを感じる能力そのものが、そもそも感じる本性を持っていることに依存している。

自分の内にある秩序を妨げるものを取り除く実践を重ねるほど、感じる本性が示してくれるものを、ますます信頼できるようになる。それを頼りにし、徒手療法の実践で使えるようになるには、それを鍛えなければならない。やがて、身体を生きる自由に特徴的な、明晰で動じない落ち着きが、すべてのセッションに臨む私たちのあり方の一部となる。感じる本性については、第5章でさらに詳しく論じる。

帰郷という比喩は、全体性を重視するアプローチの可能性を描くのに適している。ここまでの説明の段階では、全体性を重視する徒手療法がどのように実践され、より一般的なアプローチとどう異なるかという重要な詳細を示す前に、自己発見の美的な側面を味わうほうが有益である。そのために、全体性を重視する療法の結果が、観察者にはどのように見え、クライアントにはどのように感じられるかを、実感として捉える方法として、帰郷という比喩を検討する。この比喩を通じて、全体性を重視する徒手療法の可能性が自らを示すに任せる過程は、私たちの感じる本性と、その知覚の仕方を認め、その価値を理解する助けとなる。また、感じられ、生きられた経験の代わりに、空虚な抽象へと性急に身を委ねてしまうことを防ぐ助けにもなる。[1]

痛み、こわばり、慢性的なストレスから解放され、明晰で動じることなく、自分自身とも重力場や環境とも安らいで関わりながら、しなやかで、軽やかで、均衡のとれた仕方で身体を生きることが、どのように感じられるかを想像できるなら、身体を生きるとはどういうことかを、ある程度感じ取れるだろう。そして、ロルフィングのような、全体性を重視するアプローチが達成しうることの一部を理解するだろう。帰郷の経験は、自己発見の冒険である。それに伴うのは、喜びと深い充足感であり、それは、自分の置かれた状況と和し、自分自身を見いだし、自分には居場所があると感じることから生じる。突然、世界が偉大な芸術作品のように感じられる。世界は、人が住みうる秩序とつながりを、驚くほど高度な形で示しているように思われる。それは言葉で表しにくいが、感じる本性の全体にとっては、まったく明白である。この種の秩序は、強迫性障害や、整然としていることを求める神経症的な欲求によって生み出されるものではない。万物が壮大に同時存在する中で、自然、美しい音楽、あるいは帰郷の中に私たちが感じる調和は、同じものである。身体を生きる自由を楽しみながら、ただここにいることに喜びを与えるように作られていると思える世界の中で、私たちは安らぎを感じる。

サミュエル・トーデスの導きに従って、私たちは、人が住みうる世界を必要とする生き物であることを認める。[2] 周知のとおり、世界は必ずしも生きやすい場所ではない。そこには、小さなものから破滅的なものまで、人為的なものから自然のものまで、多くの困難や障害があり、自分の道を進もうとする私たちの試みを挫く。私たちは、進む道が必ずしも明らかではない状況のただ中に、なぜか、ここに投げ込まれていることに気づく。そのため、道を見失ったり、疎外されたり、自分の居場所がないと感じたりすることがある。同時に、物事はいつもすべて悪いというわけでもない。自分たちの世界と和し、人が住みうる秩序への必要が満たされると、さまざまな程度の自由と安らぎがもたらされる。あらゆるものが変化するという事実を変えることはできないし、世界から、私たちの道を塞ぐすべての危険や障害を取り除くこともできない。自由とは、制約を創造的に自らのものとすることなのだと、ついに理解するとき、私たちは、自分たちの世界を住みうるものにする方法を、どのように見いだせるか、そして実際に見いだしているかを発見する。そして、世界を人間にとって住みうるものにする最も根本的な方法は、感じる本性と身体を葛藤や固着から解放することである。そのような身体は、変化する困難な状況に、より容易に適応できる。「打撃を受け流す」と言うように、しなやかに対応できるのである。

「人間の経験の世界が、人間にとって住みうる世界であるのは、単に私たちがそれをそうしたものにするからではなく、世界が、私たちにそうすることを可能にしてくれるからである」。[3] 私たちにとって意味のある世界の中で、自分の居場所を感じ、安らぐことができるのは、世界が、それを可能にする手段を私たちに与えるように作られていると思われるからである。進化生物学から、私たちは、生物とその環境がともに進化することを知っている。生物と環境がともに進化する関係は、その生物に強力な進化上の優位性を与えるだろう。私たちの環境も、まさにそのように好ましく、可能性を開く環境だと考えるのは、十分に妥当である。

秩序への必要

帰郷を描く方法が見つかる、意外な場所の一つが、イマヌエル・カント(1734–1804)の美学である。カント自身は、この比較を明示的に行ってはいない。しかし、美、秩序、そして感じることに基づく判断の間には密接なつながりがあるため、美の鑑賞についての彼の分析は、帰郷の経験を明らかにするものとしても役立つと論じることができる。[4]

カントにとって、美の鑑賞は、快い経験を求める軽薄な営みではない。美が私たちを深く動かす力は、知識を求める際に用いるのと同じ認識過程の自由な戯れに、私たちを参与させる力にある。認識する存在として、私たちは常に知識を求めている。秩序を経験する以前に、すでに秩序を見いだす準備を整え、待ち構えている。しかし、私たちは有限な存在でもあるため、この秩序を完全に理解することも、証明することもできない。したがって、科学を実践するには、自然が、秩序を求める私たちの理性的な要求と調和していると仮定する、発見を導く原理を採用しなければならない。

美の鑑賞において、この発見を導く原理は思いがけず確かめられ、私たちは、美に満ちた、人間にとって住みうる世界の中で安らぎ、自分の居場所を感じる。美の鑑賞は、知識を求める探究で突破口を開いたときに感じる深い充足感に似た経験を与えてくれる。美の鑑賞において私たちが深く動かされるのは、研究に取り組むときに享受するのと同じ、調和と秩序を持つ知的活動が、そこで動き出すからである。しかし、美の鑑賞においては、客観的な科学的知識の探究に必要な種類の合理性が課す、制約や厳格さから解放される。その結果、私たちのために特別に作られ、秩序づけられているように見える世界へ帰る喜びに、浸ることができる。感じる快さは、秩序を求める私たちの必要が、深いところで肯定されていると経験することから生じる、深い充足の産物である。設計者はいないにもかかわらず、自然の美は、認識する存在である私たちが最も喜ぶ種類の快さを与えるために、特別に作られているように思われる。科学と美の鑑賞の重要な違いは、美は概念の助けを借りずに成立するという点にある。究極的には、美とは、これらすべてが現れ、消え去る、その活動が、概念によらずに明らかになることである。偉大な芸術作品と自然の美は、概念化される以前の世界へと開く窓である。

帰郷がどのように感じられるかを描くことに含まれる、理解の深さを認めるために、カントのアプローチの細部すべてに同意する必要はない。トーデスとカントの両者が、秩序を求める深い必要を私たちの内に見いだしていることには、重要な意味がある。しかし、カントの解明は見事であるとはいえ、決定的な何かが欠けている。美の鑑賞の中で明らかになる種類の秩序についてのカントの説明には、身体への言及がまったくないことが際立っている。美を前にしたときに感じる喜びと安らぎは、確かに、身体による理解でもあるはずだ。偉大な芸術と自然の美は、私たちを動かし、時には深く動かす。それらは、頭の中の自由な戯れに限られた快さだけを与えるわけではない。私たちの感じる本性は、垂直の中で喜びとともに解き放たれる。身体を生きるということは、真の居場所を見いだしたということであり、身体全体が、美の鑑賞と、それによって呼び起こされる自己発見の経験に参与する。このような喜びに満ちた帰郷は、感じる本性と身体全体によって理解されるのでなければ、何ものでもない。

美

カントの美学によって、私たちは、知識を求める探究の核心にある、秩序へのこの根深い必要を明らかにすることができた。しかし、私たちを成り立たせているこの必要は、認識能力だけに限られない。それは根本的であり、あらゆるところに及ぶ。細胞の細胞質に至るまで、私たちの全体に関わっている。帰郷するとは、美に満ちた世界、自分が属することのできる世界を見いだすことである。あらゆるものが、その広がりにおいては壮大でありながら、その現れにおいてはまったく単純な、天上の調和に参与しているように見える。私たちは、明確に特定することのできない大きさの秩序を抱き、その秩序に抱かれながら、そこにあるものすべての美しさそのものに、深く動かされる。それは概念なしに知られるため、言葉を超えている。しかし、感じる本性にとっては、まったく明白で、はっきりと現れている。帰郷は、頭の中の自由な戯れだけのことではない。直立した身体が重力の中で解き放たれ、垂直性の自由な戯れの中で踊ることでもある。そこでは世界が意味をなし、帰り道を進む私たちを支えてくれる。帰郷とは、身体を生きるという出来事である。それはあまりに身近な出来事であるため、私たちはしばしば、その重要性を思い出させてもらう必要がある。

何よりもまず、全体性を重視する徒手療法は、自分たちの身体へ帰ることに関わっている。すなわち、重力の中で、持ち上げられながらも地に根ざした、垂直性の自由な戯れのうちに、コアと表面が均衡を持って統合された状態へ帰ることである。ロルフが繰り返し述べたように、身体が重力の中で組織されると、重力はもはや身体の敵ではなく、その解放者となる。垂直の自由な戯れの中で、自由に、垂直へ向かう仕方で重力を自らのものとする身体の能力を、秩序を妨げるものが上回ると、私たちは困難に陥る。しかし、身体の組織化が改善されると、身体の痛みは消え始め、私たちを重く押さえつけていた葛藤や固着は薄れ始め、人生の新たな可能性に目覚め始める。帰郷とは、自分たちの身体へ帰ることなのである。

カントの帰郷は、秩序を求める私たちの根本的な必要を明らかにしてはいるが、いささか頭の中に偏りすぎている。身体の重要性を強調するなら、ロルフは錬金術の身体的な秘密を発見したと言えるだろう。人が住みうる秩序を求める必要に相当する、形態に関わる要請、あるいは身体的な対応物と、それを実現する手段を発見したのである。彼女は、ロルフィングの技を、化学者が物質の純度を判定する方法と比較して、こう述べている。「……角が明瞭でなく、ところどころにしか現れず、物質の大部分の形が不明瞭だったり、無定形だったりするなら、化学者は、その物質にさらなる精製が必要だと気づかされる……」。[5] 同様に、ロルフィングによる形づくりの過程を通して、身体が重力の中での統合に近づくと、ますます統合された、輪郭の明瞭な形をとるようになる。その結果、より効率よく機能し、楽で協調した動きを示す。身体の形が明瞭になるほど、自由の経験、居場所の感覚、属しているという感覚は、より深まる。

身体が、統合された、輪郭の明瞭な形に達すると、それは正常性の美を示す。「そして、正常な構造を見ると、突然こう言います。『ああ、そうだ、もちろん、これが正常な構造だとわかる』。不思議なことに、私たちは皆、正常なものを直観的に理解しています。正常なものを見ると、『なんて美しいのだろう』『あの人の動きはなんて美しいのだろう』などと言います。誰も、その美を定義するよう求めません。誰もがそれを認めるのです。それは正常性についての直観的な理解です」。[6] したがって、帰郷とは、正常性の美を実現することだと言える。「正常」という言葉に抵抗を感じるかもしれない人は、ロルフが「平均的であることは、正常であることではない」とも述べたのを思い出してほしい。

結論

全体性を重視する徒手療法とは何か、それが何を目指しているのかを、実感として捉えようとする最初の試みの中で、私たちは、それがクライアントの訴える実に多くの身体的な問題に対処できることを見た。さらに、自己発見と成長の可能性も明らかにした。この可能性を言葉にするための予備的な方法として、私はそれを帰郷になぞらえた。帰郷の最も明白でありながら、最も十分に理解されていない特徴は、おそらく、それが身体的な出来事だということである。帰郷とは、人間にとって住みうる世界の中で、安らぎ、自由である私の身体へ帰ることである。自分の居場所を感じ、感じる本性が葛藤や固着から自由であり、絶えず変化する世界の中で安らいでいる身体は、重力の中で統合された身体である。

免疫学の父、エリー・メチニコフは、生命が自らとその状況を改善し、高めようと、絶えず努力し続けることを表すために、「オルトビオーシス」という言葉を作った。人間について言えば、オルトビオーシスには、身体が常に垂直を求めること、すなわちオルトトロピズムも含まれなければならない。重力の中で統合を見いだし始めると、私たちの動きはより協調し、妨げられることが少なくなる。直立した身体の、統合され、地に根ざした垂直性の中で、自由に踊っている自分に気づく。徒手療法は、自らを高めることへ向かう、こうしたオルトビオーシスとオルトトロピズムの衝動を、意識的に表現したものにほかならない。オルトビオーシスの働きは、環境にも及ぶ。環境を絶えず形づくり、改善していく私たちの営みの至るところに、この努力の結果を見ることができる。「根本的」という言葉は、「根に帰る」という意味を持つ。その意味で、徒手療法は、自分自身を形づくり、高めるための、最も根本的なアプローチである。それは源へと向かい、自らを高めようとする身体自身の努力とともに働く。

もちろん、人が住みうる世界に生きることは、知覚できる、美しく住みうる世界があることを前提としている。しかし、時には苦しみが大きすぎて、重力との格闘と、あまりに多くの秩序を妨げるものに対して、自分を鎧で覆うようにしてしまう。自分を守ろうとする徒労の中で、私たちは硬くなり、密になり、あるいは柔らかくなりすぎる。残念ながら、そのような防御は、人が住みうる世界の美を味わうことを、はるかに難しくする。身体がこのような防御状態にあるとき、住みうるものの美は、文字どおり、感じ取れるほどの印象を私たちに与えない。美に動かされなくなってしまうのである。したがって、徒手療法はオルトビオーシスの意識的な表現であると言っても、決して無理なことではない。徒手療法を通して、身体と、身体の環境との関係を形づくることは、自分の居場所への帰り道を見いだすことを可能にする、最も直接的で強力な方法の一つである。身体を生きることの安らぎ、ほとんどどこでも自分の居場所を感じ、安らげる能力は、私たちがすでに、そしていつもいるところを全面的に受け入れたときに生じる、自由の表現である。

第11章では、自分の仕事を愛する、熟練した徒手療法家の経験を探究することで、身体を生きることと帰郷の概念に立ち戻る。これらの事柄についての理解をさらに深めるために、そのヌミノースな次元を引き続き明らかにし、解き明かしていく。第8章では、身体は感覚するという考えを導入する。

[1] 私たちの感じる本性が持つ知覚能力について、さらに詳しくは、拙著『心・身体・禅』(バークレー:ノース・アトランティック・ブックス、2010年)を参照。

[2] サミュエル・トーデス、『身体と世界』(マサチューセッツ州ケンブリッジ:MITプレス、2001年)。

[3] 同書、176頁。

[4] ここで述べられるよりも深くカントの美学を扱ったものについては、拙論「鑑賞の存在論――カントの美学と形而上学の問題」、『英国現象学会誌』第13巻第1号(1982年1月)、45–68頁を参照。

[5] アイダ・P・ロルフ、『ロルフィング――人間の構造の統合』(サンタモニカ:ハーパー&ロウ、1977年)、31頁。

[6] アイダ・P・ロルフ、『アイダ・ロルフ、ロルフィングと物理的現実を語る』(ニューヨーク:ハーパー&ロウ、1978年)、189頁。

03 / FIRST VISIT

記事3第2章 その領域

第2章 その領域

ロルフィングSIを実践し始めた頃、私は得られる結果に興奮し、畏敬の念を抱いていた。しかし、ほどなくその輝きは薄れ、自分がしていることを問い始めた。なおよい結果は得られていたが、それを得るやり方が定型的であることが気がかりだった。すべてのロルファーと同じように、私も、ロルフが「レシピ」と呼んだ、各1時間、全10回のセッションからなる手順の適用法を訓練されていた。初心者である私には、レシピの指示を外れて施術する準備は、当然できていなかった。同時に、自分のアプローチが、まるで「番号どおりにロルフィングをしている」かのように、ひどく機械的に感じられるようになった。個々に異なる身体を、外から与えられた型に押し込もうとしているように感じることもあった。レシピに縛られずに施術する方法を学ぶため、私はロルフィングSIのワークショップをいくつも受講した。しかし、実際に学んだのは、レシピに付け加える装飾にすぎなかった。

ロルフは、身体が自分自身とも重力とも調和するようにするための、全体性を重視する徒手療法と動作教育の、驚くべき体系を作り上げた。定型的な手順に従って療法を施すことには、いくつかの大きな欠点があるが、それでも、多種多様なクライアントを助けるレシピの力は注目に値する。唯一無二ではないとしても、レシピは確かに、めったに見られないものの、独自で明瞭な実例である。すなわち、全体性に即して推論し、介入する方法を、長い一連の過程にわたり、段階を追って示しているのである。

当然ながら、彼女は学生たちとは異なり、自分のレシピから外れた施術を、しばしば、容易に、罪悪感なく行うことができた。定型的なアプローチの欠点を認めていたため、晩年には、アドバンスト・トレーニングを作ることに着手した。残念ながら、ロルフィングSIについて、一貫性のある、定型に依存しないアプローチを作り上げる前に亡くなってしまった。ある同僚がかつて述べたように、彼女は私たちの戸口に赤ん坊を残し、それを育てることを私たちに託したのである。

定型的な手順は、その性質上、正常性を構成すると想定される、理想的な身体や状態の存在を前提としている。あらゆる身体が倣うべき理想的な構造があるという理論は、身体的理想主義と呼べる。定型主義と身体的理想主義は、手を携えている。定型的な手順は、同じ一連の介入を同じ順序で行うことを指示する。介入の順序づけに多少の変化を認める場合でも、すべての身体に同じ結果が生じることを、必然的に前提としている。すべての身体に同じ結果を想定するため、定型的な手順は、ひそかに身体的理想主義を存続させる。残念ながら、身体的理想主義は、身体が重力と関わるあり方について理想的な形を想定するにせよ、正常性について理想的な概念を想定するにせよ、すべての人にうまく当てはまるものではない。

定型的な手順に共通する、これと関連したもう一つの欠点は、一人ひとりに固有のものに注意を向けられないことがあるという点である。その結果、一人ひとりの固有の必要が求める順序に、治療戦略を配列することができない。ロルフは、この二つ目の欠点を理解しており、常に自分のレシピに従っていたわけではなかった。しかし、身体的理想主義についてはそれほど明確ではなく、クライアントの身体と施術の成功を評価する基準として、自分の理想的な身体像を使う傾向があった。

本書のかなりの部分は、ロルフが私たちの戸口に残した赤ん坊を、私たちがどう育てたかに充てられている。私はほどなく、私たちが直面する問題は、決してロルフィングSIに固有のものではないと気づいた。赤ん坊を育てるうえで抱えた問題は、あらゆる形の療法で直面するのと同じ問題だった。問題はロルフィングSIに固有ではないが、そこでははるかに切実である。その主な理由は、施術者が、なくては施術のできないレシピによって、その仕事を教えられるからである。その結果、私たちの問題はより切実であるため、より見えやすくなっている。それでも、あらゆる療法が、さまざまな段階で、同じ赤ん坊を育てているのである。

ロルフィングSIの教師になるための訓練に招かれた頃、私は自分の中で、ある小さな遊びをしていた。クライアントへの施術中に、全知のセラピストが現れ、なぜ今働きかけているその場所に働きかけているのか、説明し、その妥当性を示すよう求めてくるところを想像するのである。レシピに基づく答えしか出せないことに気づいたとき、私はかなり動揺した。たとえば、「第6セッションでは、胸腰椎移行部より上には働きかけない」といった答えである。

全知のセラピスト

これらの問題を際立たせるため、ワークショップで施術者を訓練している全知のセラピストの後について回っていると想像してみよう。徒手療法家たちが忙しくクライアントを助けていると、全知のセラピストはクラス全員に、なぜクライアントのその場所に働きかけているのかを、どのように説明し、その妥当性を示すか、考えるよう求める。続いて、3人の学生に自ら答えるよう促す。少しおびえながら、一人のマッサージ療法家が手を挙げる。彼女は、ハムストリングスが硬いため、そこに働きかけていると答える。次に、生体力学的な矯正を行う療法家が、後方へ捻転した仙骨を解放することで、クライアントの腰痛に働きかけていると答える。最後に、より折衷的な訓練を受けたセラピストが、「最も悪いところを最初に処置する」という原理に従って施術していると答える。

熱心に耳を傾けた後、全知のセラピストはマッサージ療法家を見て、穏やかにこう言う。

「ええ、そのとおりです。ハムストリングスは硬い。しかし、ほかにも少なくとも20か所は硬いところがあります。なぜ、それらよりもここを選ぶのですか?」それから、生体力学を重視するセラピストのほうを向き、尋ねる。「首、胸郭、肩甲帯、頭蓋にもこれほど問題があるのに、なぜ今、後方へ捻転した仙骨に対処するのですか?」3人目のセラピストには、こう言う。「理由は後でわかりますが、『最も悪いところを最初に処置する』は、戦略や戦術であって、原理ではありません。この場合、妨げとなっている二次的な固着があまりに多いため、それらが解放されるまで、一次的な固着は解放されません。時には、まったく逆のことが当てはまります。二次的な固着を処置する前に、一次的なものを解放しなければならないかもしれません。では、どう判断しますか? 深刻な制限が一つだけではない可能性も考えてください。同程度の機能障害を持つ領域が5つあったら、どうしますか? どれを最初に選びますか?」

最後に、もう一つ。クライアントにどう施術するかは、自分の行う療法をどう捉え、どう実践するかに、大きく依存している。あなたはどの実践パラダイムの中で仕事をし、その仕事にどんな結果を期待しているのだろうか。施術がリラクセーション反応を生み出すことを目指しているなら、重力の中で身体を組織することや、関節の固着を解放することはできない。スウェディッシュ・マッサージは、必要なリラクセーションをもたらす優れた方法である。しかし、両側で後方に固着した仙骨を解放するとなると、リラクセーションを目指す療法では、その仕事を果たせない。身体全体に大きく広がるストレイン・パターンがある場合、より全体的な歪みを把握せずに、症状を一つずつ和らげる技法を用いても、よい結果が得られないことが多い。

3つのパラダイム

上で実践パラダイムに言及したのは、多くの徒手療法を区別し、分類するための私なりの方法である。「実践の3つのパラダイム」と呼ぶこの分類は、施術者が外科医であれ、シャーマンであれ、催眠療法家であれ、あらゆる形の癒しと医療に適用することを意図している。想像しうるどのような医療も、3つのカテゴリーのいずれかに入る。第1のパラダイムは、クライアントをリラックスさせることで癒しを促すことを目標とするため、リラクセーション・パラダイムと呼ぶ。例としては、スウェディッシュ・マッサージ、温罨法や冷罨法、温浴などがある。第2のパラダイム、矯正パラダイムは、宇宙とすべての生き物を機械的な出来事とみなす、機械論的な理論に基づく。矯正を行う施術者は、身体を部品からなる柔らかな機械と考える傾向があるため、評価と処置は断片的で、症状に即したものとなる。固着した関節だけを調整する実践や、リンパドレナージ、歯科医療、足病医療のように、身体の一つの機能や側面に限定した実践は、矯正的な実践に該当する。第3のアプローチは、全体性のパラダイムであり、人全体の統合、調和、秩序、機能の向上を目標とする。さらに、ロルフがよく理解していたように、身体を環境と重力に調和させることを含まなければ、全体性のパラダイムは不完全である。全体論の目標は、比喩によってまとめることができる。全体性を重視する徒手療法は、星を押し動かすのではなく、空を変容させようとする。全体性を重視するアプローチの例としては、東洋医学、オステオパシー、ホメオパシー、フェルデンクライスがある。全体性を重視する実践が依拠する科学と哲学も、全体性に即したものでなければならない。

3つのパラダイムは、互いに階層的な関係にある。リラクセーションを行う施術者は、偶然の場合を除いて、ほかの二つのパラダイムの目標を達成できない。矯正を行う施術者は、通常の実践の中で、リラクセーション・パラダイムの目標を達成できるが、全体性のパラダイムの目標は、偶然の場合を除いて達成できない。全体性を重視する施術者は、通常の実践の中で、最初の二つのパラダイムの目標を達成できる。3つのうち、どれか一つのパラダイムだけを純粋に実践する施術者は、おそらくややまれである。経験と実践を重ねるにつれて、多くの施術者は、すべてのパラダイムの間を自由に行き来して施術し、クライアントの必要に応えるようになる。また、徒手療法は通常、病気そのものを扱うわけではないことにも、注意しておきたい。

これらは、実際に違いをもたらす相違である。たとえば、第2と第3のパラダイムの施術者は、生物学的秩序について、きわめて異なる見解を持っている。生物としての全体と機械とでは、秩序づけられ方も、損傷や介入への応答の仕方も根本的に異なる。そのことを知らないと、評価が不明瞭になり、効果が制限されうる。機械と生きた身体の組織され方の重要な違いは、第8章で取り上げる。

3つの問い

クライアントを処置する順序は、何を処置するかと、まったく同じくらい重要である。したがって、本書の大きな部分を、療法がどう進むか、なぜ私たちは行っていることを行うのか、なぜその順序で行うのか、その妥当性をどう示すのか、そしてそれらがどのような科学と哲学に基づいているのかを理解することに充てる。想像上の全知のセラピストと向き合うことで生じた問いに取り組むうちに、私たちの行うすべてのことの核心には、問われ、答えられなければならない3つの基本的な問いがあると、徐々に気づいた。それを問う必要があるのは、すべての徒手療法家だけでなく、すべての治療者である。さらに、これらの問いは、毎回のセッションの開始時、セッション中、そしてセッションの終了時や、一連のセッションの終了時にも問われなければならない。すなわち、最初に何をするのか、次に何をするのか、そして、いつ終えるのか、である。

これらの問いに答えようとして、私は徒手療法の原理に関する本を次々に読み、学会に出席し、多くのすばらしい人々と出会い、著名な著者、セラピスト、教師たちと話をした。そして、多くを学んだ。少しばかり二流のソクラテスのような気分になりながら、無理なく尋ねられるときには、いつでもこの3つの問いを投げかけた。多くの答えはあったが、本当に満足できるものはなかった。不思議なことに、受け取った答えからすると、誰も自分にこれらの問いを投げかけたことがないかのように思えた。原理については多くが語られたが、原理とは何を意味するのか、あるいはどの意味の原理を問題にしているのかについての理解は、ほとんどなかった。

聞いた多くの答えの中でも、一つ、役には立たないがユーモラスな答えが際立っている。私は著名なセラピスト兼教師に、なぜ今、手をある場所から別の場所へ移したのかを尋ねた。つまり、なぜそのことを次に行ったのか、という問いである。彼は、「目が最初に自然と向いたところに、手を置くのです」と答えた。クライアントにすばらしい結果をもたらしていたので、その方法は彼には有効だったらしい。しかし、ほかのセラピストに教えるには、少し個人的すぎた。尋ねる機会を得られなかった問いは、そもそも目が正しい場所に向いたと、彼はどうしてわかったのか、というものである。彼はどういうわけか、新たな評価の技能を発見していた。もし、次に働きかける必要のある場所へ目が正しく向いたと、どうしてわかるのかを、手間をかけて検討してさえいれば、ほかの人にも教えられる、有用な知覚の技能を発展させることができただろう。

予想されるように、経験豊かな施術者の大半は、この3つの問いを尋ねられると、評価の重要性を強調する傾向があった。優れた評価の技能は不可欠である。どこから始め、次にどこに働きかけ、どこで、いつ止めるかは、知覚の技能、機能障害を知覚する能力、そして問題がいつ解放されるかに依存する。クライアントの問題が何なのか見えなければ、それに対処することはできない。クライアントが何を必要としているかを、よりよく知覚できるほど、施術はよりよいものとなる。ロルフは、学生たちによくこう言っていた。「あなたたちは目を向けています。でも、私がしてほしいのは、見ることです」。

先へ進む前に、用語について二つ述べておきたい。固着、機能障害のある領域、症状といった言葉で語る代わりに、私は「秩序を妨げるもの」という呼び方を好む。これは、それらが統一された全体的なパターンであり、関節から世界観まで、同時に多くの水準で人全体の組織化と自由に関わり、それらを損なっているという事実に、注意を向けるためである。したがって、関節に見いだされるものであれ、世界観に見いだされるものであれ、すべての固着を「秩序を妨げるもの」と呼ぶ。

また、本書の文脈で使う「知覚」と「見る」という言葉は、視覚に限定されないことを覚えておいてほしい。これから見るように、私たちは、たとえば感じる本性やエネルギーを通して見ることができる。軟部組織に手で働きかけることは、知覚の一形態である。そして、最終的には、身体全体が感覚の場であることを理解するようになるだろう。

知覚の本性については第6章で、それをどう訓練するかについては第7章で検討する。

評価と介入の類型

クライアントの正確で包括的な評価は、効果的な介入に不可欠であり、とりわけ人全体に働きかける場合にはそうである。秩序を妨げるものについて何を探すべきかを知ることは、処置に先立つ。そのため、施術者の知覚の技能の発達を助けるために、私は、相互に関連する5つの評価と介入の類型を特定し、発展させた(当初は、これらを評価の5つの分類体系と呼んでいた)。実践への応用に加え、この5つの類型が示す、実際にある、あるいは可能な、数多くの評価と処置の方法は、全体性を重視する徒手療法の広がりと深さをも、きわめて明瞭に示している。

5つの類型は、次のとおりである。1)構造的評価と介入は、構造を評価し、さまざまな構造的技法を使って、それを組織することに関わる。それらの技法には、筋膜の技法(一部はロルフィングSIに固有のもの)に加え、臓器、頭蓋仙骨系、神経に作用する技法も含まれる。2)幾何学的評価と介入は、構造的な類型に似ているが、幾何学的なパターンと形の観点から、構造的なストレインと不均衡、そしてそれらの解消を捉える。3)機能的評価と介入は、機能障害を伴う動作のパターンを認識して解消することと、さまざまな徒手技法や動作の技法によって、正常な協調運動を促すことを目標とする。4)エネルギーの評価と介入は、機能障害を伴うエネルギーのパターンを認識し、エネルギーの技法を用いて構造の統合性を直接促す方法に関わるとともに、身体の内側と周囲に存在する場に対する、鋭い知覚を育てることにも関わる。5)心理生物学的な方向づけ(または志向性)の評価と介入は、情動の固着、世界観の葛藤、トラウマ、その他これらに類する困難を認識して解消することに関わる。それらの困難は、構造と、個人の世界に対する方向づけを損なうものである。

構造的、幾何学的、機能的な評価と介入は、おそらく比較的なじみがあるため、それほど多くの時間を割かない。しかし、エネルギーと心理生物学的な方向づけの類型については、それぞれ異なる理由で、もう少し説明が必要である。

心理生物学的な方向づけ、あるいは志向性の評価と介入というカテゴリーの考えは、よく知られてはいないが、全体性を重視する徒手療法にとって重要である。そのため、第5章を、それが何かを示し、それが何であり、どのように働くのかを説明するいくつかの事例を提示することに充てる。本章の残りは、エネルギーの評価と介入というカテゴリーの短い説明と、介入の原理の導入に充てる。原理についての議論は、第3章と第4章で完結させる。

エネルギー・ワーク

徒手療法とエネルギー・ワークは、昔から、表立たない関係を持ってきた。ともに働いていても、互いを信頼していないことが多い。大半の生物学者は、生命エネルギーという考えを、フロギストンと同類の虚構だと考えている。ロルフは、最初からエネルギーと、その施術における役割に関心を持っていた。しかし、それを教えたり、強調したりはしなかった。彼女の死後、年月が経つ間に、エネルギー・ワークへの関心は爆発的に高まった。今日では、世界中で、エネルギー・ワークについての多くのクラスやワークショップが開かれている。エネルギー・ワークは徒手療法の領域の一部であり、何千年もの間そうであった以上、取り上げるに値する。

現代物理学は、エネルギーを「仕事をする能力」と定義する。明確にするため、また物理学による定義と区別するために、エネルギーの施術者になじみのあるエネルギーを、ここでは現象学的エネルギーと呼ぶ。仕事をする能力という定義は、私たちが現象学的エネルギーと呼んでいるものを含む、あらゆる形のエネルギーに共通する特徴を捉えていると言ってよい。しかし、それ以上のこととなると、現象学的エネルギーと、それが癒しの中でどう働くかについての定義としても記述としても、到底足りない。生命エネルギーの理解と使用において経験が果たす中心的な役割を、まったく捉えていないのである。仕事をする能力とは異なり、現象学的エネルギーは、施術者にもクライアントにも直接感じることができる。現象学的エネルギーを経験し、知覚するこの能力は、身体全体による理解を含むように、自らの知覚能力を広げられる施術者の能力に依存している。現象学的エネルギーの多彩な活動すべてを知覚する能力は、施術者が効果的な療法を施す能力にとって、決定的に重要である。それがなければ、適切な評価と処置は制限される。

現象学的エネルギーは、知覚可能で、自己組織化し、感覚性を持つ知性であり、生命を支え、維持する働きを担っている。それが癒しのセッションで現れるには、施術者の方向づけ、すなわち志向性の変化が、絶対に不可欠である。きわめて現実的な意味で、どのような癒しのセッションでも、その最初の介入は、施術者が自分自身の葛藤や固着に加え、助けよう、癒そうという意志的な欲求をも取り除くことにある。自らが妨げとならないようにすることで、施術者は、強い力を持つ、起こるに任せる状態に入り、現象学的エネルギーが働くための空間を開けることができる。現象学的エネルギーが現れると、施術者には、健全な変化を促す能力、あるいは力が満たされる。

ここに、自らの語ることをよく知る者によって書かれた、内なる力を養うよう勧める、古代の道家の文章の一例を示す。

1. 身体が整っていなければ、
2. 内なる力は来ない。
3. 内側で静まっていなければ、
4. 心はよく秩序づけられない。
5. 身体を整え、内なる力を助けよ。
6. それは次第に、おのずとやって来る。[1]

施術者が、エネルギーのセッション中に、時折、エネルギー以外の技法を使う場合でも、それらの技法にはおのずと同じエネルギーが満たされ、より効果的になることが多い。エネルギーの施術者の大多数は、変化をもたらすために、触れることに基づく技法を使うが、身体の近くにいることは必須ではない。エネルギーによる癒しの効果と、施術者とクライアントの関係は、根底では非局所的なものである。[2]

現象学的エネルギーが、クライアントと施術者の両方に現れる多くの仕方のうち、いくつかを挙げると、次のようになる。働きかけている領域での圧迫感や充満感、ピリピリする感覚、身体の内側や周囲を流れる感じ、何かが何らかの制限を解放するために絶えず働いている感覚、身体固有の幾何学が、周囲のエネルギー環境とその幾何学に適合すること、身体の内側や外側で、流動的であったり、ある程度静止していたりする、記述の難しい幾何学的な形が、自らを整えようとしていること、症状がいったん強まった後に解放が起こること、その人のあらゆる水準での再組織化、さまざまなバイオダイナミックな潮汐現象、そして、そのほかにも多くある。

原理

全体性を重視する徒手療法の領域を探ってきたので、ここで介入の原理について、予備的な理解を得る必要がある。経験豊かなセラピストは、多くの種類の機能障害を認識し、解放する方法を知っている。しかし、そのセラピストは、評価から集めたすべての情報を、どのように取り込んで治療戦略を組み立てるのだろうか。どこから始め、次にどこに働きかけ、いつ終えるかについての、あなたの一つひとつの選択には、それを選ぶための何らかの根拠や理由がなければならない。初心者のロルファーの答えは単純だが、ほとんど役に立たない。レシピに従う、というものだ。自分は直観によって施術していると知ることも、有用ではなく、助けにはならない。直観は、定義することも教えることも難しいことで知られている。したがって、本書は、介入の原理に基づく、実際に使える意思決定の過程を作ろうとする試みである。私は、直観を手放すよう勧めているわけではない。直観を疑う代わりに、それを育て、明らかにすることを学ぶべきである。第6章と第7章で、知覚を訓練するために私が作り上げた3段階の練習は、直観をも訓練し、研ぎ澄ますことがわかっている。

原理とは何であり、どう働くのかを知るために、かなり異なる文脈を考えてみよう。ジョン・ケージは、ある種の禅的な過剰さをもって偶然性の音楽を考案し、探究した、奔放で、すばらしく創造的な現代アメリカの作曲家である。彼が語る興味深い話は、ここで問題にしている「原理」という言葉の使い方を、見事に示している。ケージは、20世紀の偉大な芸術家たちの多くと知り合い、そのもとで学んだ。次の話は、十二音技法の創始者、アルノルト・シェーンベルクに学んでいた頃のものである。

UCLAでの対位法の授業中、シェーンベルクは全員を黒板に向かわせた。私たちは、彼の出したある問題を解き、解き終わったら振り向いて、解答の正しさを彼に確認してもらうことになっていた。私は指示どおりにした。彼は言った。「よろしい。では、別の解答を見つけなさい」。私はそうした。彼は言った。「もう一つ」。私はまた一つ見つけた。彼はまた言った。「もう一つ」。それが続いた。ついに私は言った。「もう解答はありません」。彼は言った。「すべての解答の根底にある原理は何か?」[3]

哲学の論考や科学的な探究には、「原理」という言葉の多様な用法と定義が見られる。「原理」は、基本法則、根本的な性質、あるいは価値を指すことがある。しかし、私たちの議論に関係するのは、たとえば一連の推論など、何かがそこから進んでいく根本的な規則として、原理を定義する用法である。たとえば、「2、4、6、8……」という単純な数列は、ほとんど考えずに続けられるが、その継続は、「数列を続けるには、最後の数に2を加える」という原理に基づいている。同様に、徒手療法の場合、介入の原理は、臨床での意思決定の過程がそこから進んでいく、根本的な規則である。シェーンベルクが「すべての解答の根底にある原理は何か?」と尋ねるとき、彼はこの用法を明確に示している。

ケージの話から得られる教訓を、臨床での意思決定の過程へと広げれば、ケージがシェーンベルクのために作り出した解答は、さまざまなクライアントの腰痛を解消するために用いうる、多くの治療戦略に似ていることがわかる。それぞれの患者の腰痛に取り組む戦略は、患者自身と同じくらい多様でありうる。ケージと同じように、私たちも最初は、治療戦略の組み立てが、どのように原理によって導かれているのかを、十分に自覚していないかもしれない。しかし、自覚しているかどうかにかかわらず、解決を見いだし、戦略を作ることを可能にしているのは、原理である。臨床の場で、戦略は経験則のように働く。すべての場合に適用できるわけではない。その性質上、経験則は、破ることのできる規則である。経験豊かな施術者の手にかかれば、それは患者一人ひとりの必要に合わせて組み立てられ、放棄される。しかし、原理は、すべての戦略と解決の根底にあり、そもそも任意の戦略や解決を形づくることを可能にするものなので、たとえ創造的にであっても、放棄することはできない。実際、原理はゲームを定義する規則のようなものだと理解すれば、それを放棄することには意味がなくなる。

治療戦略を組み立てるときに、常に問わなければならない3つの問いを思い出してほしい。どのように答えに至るにせよ――直観によってであれ、定型的な手順に従ってであれ、単に症状を一つずつ処置することであれ、原理を適用することであれ――これらの問いは、意識に上らせるかどうかにかかわらず、私たちの行う一つひとつの臨床上の決定すべてに、前提として含まれている。これらの問いを問わなかったり、避けたり、適切に答えなかったりすることが、患者が不適切な療法に苦しむことの多い理由であり、その程度にも関わっている。明示的であれ暗黙のうちであれ、私たちが行うすべての治療上の決定と、その決定を適切な治療戦略へと順序づけようとするすべての試みは、よくも悪くも、この3つの問いにどれほどうまく答えたかを示している。介入が、単なる症状の追跡や、定型的な手順への盲目的な固執にすぎないものとなるのを避けるには、介入の原理の本性と、それが臨床での意思決定の過程においてどう働くかを理解しなければならない。

原理と優れた評価の技能のほかに、臨床での意思決定の過程に寄与する要素には、患者がさまざまな治療手順にどう反応するかについての研究データ、機能的な治療結果の測定、解剖学・生理学・運動学についての十分以上の理解、禁忌、そして優れた技術的技能の発達がある。しかし、少し考えれば、これらの要素をすべて、さらにはそれ以上を身につけていたとしても、なお何らかの合理的な方法が必要であることがわかる。すなわち、すべての情報に優先順位をつけ、患者一人ひとりの固有の必要と制約を踏まえて何が関連するかを判断し、そのうえで、自分の決定を適切な治療プログラムへと順序づける方法である。情報に優先順位をつけて治療戦略へとまとめるこの能力は、原理についての暗黙の、あるいは明示的な理解から生じる。

[1] ハロルド・ロス、『原初の道』(ニューヨーク:コロンビア大学出版局、1999年)、104頁。

[2] この主題について、さらに詳しくは、拙著『心・身体・禅』(バークレー:ノース・アトランティック・ブックス、2010年)を参照。

[3] ジョン・ケージ、『サイレンス』(マサチューセッツ州ケンブリッジ:MITプレス、1966年)、16頁。

04 / MENU

記事4第3章 原理を求めて

第3章 原理を求めて

原理の重要性については、分野を超えて広く意見が一致している。疼痛管理、オステオパシー、理学療法、カイロプラクティック、ロルフィングSI、そして多くの関連分野で書かれた多数の論文や著書に、ざっと目を通すだけでも、合理的な意思決定の過程が必要だという認識とともに、原理への言及が繰り返し現れることがわかる。「原理」という言葉は文献で非常によく使われ、論文や本の題名にも頻繁に現れる。実際、「合理的」という言葉の根本的な意味の一つは、「原理に従って考える」である。しかし、不思議なことに、数多くの議論のいずれも、最も基本的な問いには触れていない。原理とは何か、そして何が介入の原理を成り立たせるのか、という問いである。どの種類の原理を問題にしているのかを明らかにしないことの直接の結果として、これらの文章のうち、介入の原理を一つでも提示することに近づくものは、ほとんどない。実際、文献で原理として通用しているものは、原理ですらないことが多い。実際に原理が提示される場合でも、それは介入の原理ではなく、ほかの関連する営みの原理であることがわかる。したがって、原理についての、一貫性があり、臨床的に意味のある議論を見つけることは難しい。本章は、原理をめぐるこうした混乱を明らかにし、臨床での意思決定における原理の役割を、ある程度詳しく説明することを目的としている。

原理と戦略

原理と戦略を混同することは、群を抜いて最もよくある誤りである。多くの著者は、介入の原理を述べているつもりでいるが、実際には、局所的な身体の機能障害を処置するための、いくつかの効果的な治療戦略や手順を示しているにすぎない。オステオパス、フィリップ・グリーンマンの優れた著書『徒手医学の原理』は、一貫してこの混乱の例を示している。たとえば、彼はこう述べる。「胸郭の機能障害を処置する際には、最良の結果を得るために従うべき治療の原理がある。ほぼ例外なく、肋骨を個別に、あるいはまとめて扱う前に、胸椎の構造的診断と徒手医学的な処置を行うべきである」。[1] この治療上の勧めは、臨床的に理にかなっており、たいていの場合に当てはまるが、介入や治療の原理ではない。それは、むしろ治療戦略、あるいは戦術である。原理であるなら、「ほぼ例外なく」とは言えないはずである。戦略は、患者一人ひとりの必要と反応に応じて放棄できる。しかし、原理は、さらなる治療戦略を組み立てる基盤であり、徒手療法というゲームを定義する規則のように働くため、放棄することはできない。介入の原理を放棄することは、ゲームを定義する規則を放棄することに似ている。ゲームを定義する一つ、あるいは複数の規則を放棄すれば、もはやそのゲームをしていることにはならない。明らかに、一連の推論を戦略的な規則に基づかせることはできない。そのため、自分は原理を提示したというグリーンマンの考えは、誤っている。

R・C・シェーファー博士とL・J・フェイ博士も、動的カイロプラクティックの原理を扱うとする著書の中で、同様の混乱の例を示している。導入の章で、彼らは原理の問題に触れ、こう主張する。「本節では、ほぼすべてのカイロプラクティックの矯正技法の基礎となる、いくつかの一般原理を簡潔に定義しようとする。ただし、すべての場合に適用されるものは少ない。これらの原理は、その場の状況と、適用する個人に合わせて修正されなければならない」。[2] 治療戦略と原理を混同する実に多くの著者と同じように、彼らも、原理はその場の状況に合わせて修正されなければならないと、誤って結論づけている。当然ながら、彼らの原理についての議論は、原理を扱ってはまったくいない。実際に扱っているのは、療法の目標、技法、施術台の高さ、技法を適用する際の適切な手の置き方、そして、介入の原理を明確にすることとは関係のない、その他の実践的な配慮など、関連する別の問題である。

原理と正常な機能

もう一つのよくある混乱は、理論家が、身体の正常な機能について十分に確立された観察を取り上げ、それを原理と呼ぶときに生じる。こうした、いわゆる原理は、正常な機能の法則と呼べるものに、より近い。多くのオステオパスがそう呼んでいる「動脈の原理」は、この誤りのよい例である。それは介入の原理ではなく、正常な機能の法則である。正常な機能を認識し、身体をその状態へ戻せることは、もちろん、有能なセラピストになるための重要な前提条件である。結局、正常な機能は、あらゆる療法の最も重要な目標の一つである。しかし、正常な機能、あるいは向上した機能という目標は、介入の原理ではない。シェーファーとフェイも、原理に充てた節に療法の目標についての議論を含めるとき、同じ誤りを犯している。しかし明らかに、療法の目標は、介入の原理とは種類がまったく異なる。治療の目標は、原理を適切に適用し、介入を順序づけることによって達成される。目標は、戦略を組み立てる基盤となる、自己生成的な原理ではない。

原理の二つの意味

もう一つのよくある誤りは、ほかの関連する営みの原理と、介入の原理を混同することである。この誤りは、治療関係を支配する原理の提示に関心を持つ理論家の、心理学の文献によく見られる。ロン・クルツ博士は、そのような原理の一つを「非暴力の原理」と呼ぶ。それは、治療上の結果を得るためにクライアントに働きかけるとき、臨床家が力を用いないことを求める。彼はこう言う。「療法における暴力は、とても微妙なものである……誰かが、他人にとって何が最善かを自分は知っていると、ただ思い込むとき、そこには暴力がある……セラピストが、自分のために情報を集めようと質問し、そのためにクライアントの話をたびたび遮るとき、それは暴力であり、抵抗を生む……非暴力は、受容する態度と、出来事が自然に展開する仕方への積極的な注意から生まれる」。[3] このような議論は、すべての医療専門職の実践にとって、きわめて重要であり、関係が深い。しかし、この種の原理は、介入の原理と同じものではない。自分自身の心理状態に気づき、クライアントに開かれ、クライアントを受け入れ、総じて、適切なクライアントと施術者の関係を作る方法を知っていることは、あらゆる療法の成功にとって、この上なく重要である。しかし明らかに、療法に適切な環境を作る方法を知っていても、個々の事例でどう介入すべきかを判断するための、必要な指針は得られない。

原理、評価、技法

理論家はしばしば、介入の原理を述べていると考えるが、実際には、評価、治療結果の評価、あるいは技法の適切な適用の重要性を論じている。ロバート・ウォードは、「筋膜リリース治療の原理」と題した節で、13の原理を挙げている。しかし、挙げられたものの中に、介入の原理は一つもない。たとえば、原理4にはこうある。「受動的な検査のほうが正確な情報を与えるため、触診による評価では、同じ部位を受動的に検査すべきである」。[4] この記述は介入の原理ではなく、触診についての重要な観察を基に、適切な評価をどう行うかを勧めるものである。フレッド・ミッチェル・ジュニアは、マッスル・エナジー徒手療法の概念は「相互に強く関連しているため、原理を直線的に説明するのは難しい」と述べる。それでも続けて、彼の「基本原理は、受動的に動かされるすべての関節について同じである。正確に加えられる対抗力に対して随意的な筋収縮を行い、特定して局在化した関節を緩め、収縮後の弛緩の間に受動的な関節運動を行えるようにする」と述べる。[5] この観察は重要ではあるが、ミッチェルが述べたのは、介入の原理ではなく、ある特定の技法を適用する方法についての勧めと説明である。

原理と哲学

もう一つのよくある誤りは、介入の原理と、ある特定の分野の哲学を表明することを混同することである。実際には、こうした、いわゆる哲学の表明は、真の哲学の実例ですらない。各分野が、その施術者に受け入れてほしいと考える価値を宣言しているにすぎない。こうした価値の例には、「害をなすな」「患者が自分自身の健康と幸福に責任を持てるよう、力を与えよ」などがある。このような価値を支持し、それに従うことが重要であると否定する人は、ほとんどいないだろう。しかし、ここでもまた、これらの価値に従っても、臨床上の決定を順序づけ、適切な治療戦略を作る方法は得られない。

ゲームとの類比

ジェフリー・D・メイトランドは、マニピュレーションをある種のゲームと比較するとき、原理の本性の理解に最も近づいている。彼はこう述べる。「マニピュレーションは、プレーヤーが技法を使って、望む方向へ球を打つゴルフのようなものではない。もっとも、大半の人は、マニピュレーションの技法をそのように使う傾向がある……マニピュレーションは、むしろチェスに似ている……さらによい類比は、コントラクト・ブリッジである……カードを出す技術には、よく考えられた、慎重な計画が必要である」。[6] また、こうも述べている。「不可欠なのは、技法の適用における推論と計画であり、技法それ自体ではない」。[7]

G・D・メイトランドは、「正しい優先順位の配列」を組み立てる過程にゲームとの類比が関わることを、正しく理解している。しかし、介入の原理とは何かを捉えてはいない。実際、介入の原理についてはまったく論じていない。介入の原理を論じる意義が見えていないため、非常に重要だと正しく認識している「技法の適用における推論と計画」を、十分に捉えることができない。戦略や戦術を組み立てる際の推論と計画の基礎となる原理を示す代わりに、精密な検査過程を詳しく展開することに専念している。彼の評価は、構造的、機能的なカテゴリーに属する。

適切な評価をどう行うかについての理解に対する、G・D・メイトランドの貢献の重要性には、疑問の余地がない。臨床家が患者の状態について関連する情報を集められない程度に応じて、適切な治療戦略を組み立てることも、できないはずである。しかし、検査過程から関連する情報をすべて集めた後でも、介入の原理について明示的な理解も暗黙の理解もなければ、技法の適用をどのように順序づけるかについて、臨床家には合理的な根拠がない。これから見るように、原理は、ゲームの性質を定義する規則に似ている。ゲームの規則、あるいは介入の原理を知らず、理解していなければ、プレーヤーも臨床家も、G・D・メイトランドが正しく非常に重要だとみなしている、慎重で十分に考え抜かれた計画を立てることはできない。そして、G・D・メイトランドが一度も明確に述べていないのは、まさにこれらの規則なのである。

上記の誤りを指摘するにあたって、これらの要素が重要ではないとか、臨床上の決定や戦略の組み立て方に、どういうわけか関係がないとか述べていると、誤解されたくはない。明らかに、身体の機能障害を評価し、正常な機能を認識し、療法の目標を述べ、幅広い技法を適切に用い、機能的な治療結果を評価し、適切なクライアントと施術者の関係を作れることは、いずれも臨床での意思決定の過程において、重要な位置を占める。しかし重要なのは、介入の原理についての明示的、あるいは暗黙の理解がなければ、これらの要素は、単独でも、合わせて考えても、最初に何をし、次に何をし、いつ終えるかを決めるための、明確で合理的な方法を与えてくれないということである。

二種類の規則

原理についての文献上のあらゆる混乱と、何が原理を成り立たせるかという問いに、誰も取り組んでいないことを考えると、臨床上の決定を適切な治療戦略へと順序づけようとする、すべての試みに多くの曖昧さが見られるのも、不思議ではない。原理をめぐるこれらの問題は、臨床家が日々行うことにとって、決定的に重要である。したがって、介入の原理を述べようとする前に、原理とは何かを理解する必要がある。

先に述べたように、ここで関係する「原理」という概念の意味は、一連の推論や、臨床での意思決定の過程が、それに基づいて進む規則である。原理とは何か、どう働くのかを容易に捉える方法は、単純なゲームを考えることである。チェッカーのゲームでは、二種類の規則を区別できる。構成的規則と、戦略的規則である。構成的規則は、ゲームをどう行うかを定義する規則である。構成的規則がゲームそのものを定義しているため、これらの一つ、あるいは複数を破ることは、もはやそのゲームをしていないことに等しい。プレーヤーの一人が、負けるのを避けるために、駒を盤の外へ動かしてテーブルの上に置いたとすれば、その人はすばらしい駆け引きの巧みさや創造性を示しているのではなく、ただ単に、もうチェッカーをしていないのである。

それに対して、戦略的規則は経験則である。それらはゲームを定義しない。むしろ、繰り返し現れるある状況で、どの手が最善とみなされることが多いかについて、経験に基づく一般則を述べる。構成的規則とは異なり、戦略的規則を破ることは、もはやそのゲームをしていないことを意味しない。「常に」と「決して」は、どのような場合でも、戦略的規則には当てはまらない。初心者が戦略的規則を繰り返し破って負けるなら、私たちはその人を経験の浅い対戦相手とみなすだろう。もうチェッカーをしていないと責めることはない。多くの戦略的規則を破りながらも、いつもチェッカーに勝つプレーヤーを見たとすれば、その人はもはやチェッカーをしていないとか、下手なプレーヤーだとか結論づけることはない。その人は、非常に熟練し、創造的で、経験豊かなプレーヤーだと結論づけるだろう。

全体性のパラダイムでは、治療的介入の原理は、ゲームの構成的規則によく似た仕方で働き、戦略と戦術は経験則のように働く。戦略とは異なり、原理は治療の領域を定義し、正常な機能や向上した機能が生じる条件を述べる。戦略や戦術と異なり、原理は数が少なく、介入を試みたり、治療計画を組み立てたりするたびに、検討される。ゲームの構成的規則と同様に、施術者の裁量で捨て去ることはできない。しかし、介入の原理は、重要な二つの点で、ゲームの構成的規則とは異なる。正常な機能や向上した機能が得られるための必要条件を述べるが、十分条件は述べないこと、そして戦略、戦術、経験則のように、時間的な表現で述べられないことである。戦略と戦術は「Yの前にXをせよ」と言う。原理は「XはYに依存する、あるいはYの条件である」と言い、XとYのどちらを先に行うべきかは、完全に開かれたままにする。ゲームを定義するどの規則を破っても、もはやそのゲームをしていないことになるのと同じように、介入の原理のどれかを無視し、捨て去ることは、もはや身体療法への全体性を重視するアプローチを行っていないことになる。

戦略と戦術は、介入を適用する時間的な順序を述べ、原理は、その時間的な順序を組み立てる基盤を述べる。したがって、原理とされる記述に時間的な表現が含まれているのを見つけたら、それはおそらく、原理を装った戦略的規則だと考えられる。肋骨の機能障害を扱う前に、胸椎の椎間関節の制限を解消すべきだというグリーンマンの勧めは、あらゆる戦略と戦術が示す時間的な順序の、よい例である。明らかに、グリーンマンが述べているのは、自分で考えているような介入の原理ではなく、戦略的規則である。グリーンマンの規則は、たいていの場合に適用される戦略的規則の一例である。しかし、そのような戦略的規則が一般にどれほどよく適用でき、施術者がいくつ知っていたとしても、さらなる戦略や戦術を、それらに基づかせることはできない。戦略と戦術は、常に例外を認める。それらは、例外を設ける基盤にも、さらなる戦略を組み立てる基盤にもなれない。そのように働くのは、原理だけである。

矯正パラダイムについての議論を思い出し、矯正を行う施術者が使えるのは、戦略的規則だけであることに注意してほしい。介入の原理は、全体性を持つ体系の原理であり、第2のパラダイムでは使えない。したがって、矯正を行う施術者には、治療計画を組み立てる方法がない。その結果、治療的介入は、直観による当たり外れのある営みとなり、常に定型主義や症状の追跡へと陥る瀬戸際に置かれる。そして、この二つの方法のどちらも、クライアントが処置に応じて変化する仕方に、適切に注意を向けない。この点を、もう少し慎重に検討してみよう。

多くの施術者にとって、原理を患者固有の必要に合わせて修正できないという主張は、過剰とまでは言わないにせよ、奇妙に聞こえるに違いない。しかし、問題はこの主張にあるのではなく、原理とは何か、全体性に即した思考でどう働くかについての混乱にある。原理の本性を適切に理解していなければ、すでに見たように、原理を、原理ではない記述と混同する傾向が生じる。原理は、戦略、療法の目標、正常な機能の「法則」、治療関係のような、ほかの関連する営みの原理、ある分野の哲学的な価値などと、常々混同されている。これらの原理ではないものの多くは、療法の最中に修正したり、捨て去ったりでき、また多くは多少とも議論の余地がある。そのため、施術者が、原理は時には放棄できると結論づけることは、まったく不思議ではない。

こうした混乱が背景に漂う中で、グロディンとカントゥは、軟部組織モビライゼーションについての論文で、自分たちが「治療適用の原理」だと考えるものを示している。残念ながら、原理と称するものの大半は、戦略と技法の一覧、そして介入の順序に関する勧めであり、その順序には、原理に基づく妥当性の説明がない。ほかの順序ではなく、なぜこの5段階の計画を、この順序で行うべきなのか。これらの選択の根拠、すなわち原理は何なのか。彼らはこう述べる。「検査によって病変が特定されたら、適切な目標を設定し、必要に応じて軟部組織へのアプローチを用いる……患者への適切な処置の順序は、理想的には、次のものからなるべきである。

  1. 可動性が低下した領域への、軟部組織モビライゼーション。
  2. 軟部組織の正常化に続く、関節モビライゼーション。
  3. 新たに得られた可動域に基づく、軟部組織の伸長。
  4. 異常な動きを示す領域の正常な動きを回復するための、神経筋の再教育。
  5. 可動域と動きの質の向上を維持し、異常な動きを示す領域に作用する、てこの腕と支点作用を取り除くための、自宅でのプログラム」。[8]

処置の時間的な順序を示す規則と原理を混同することは、矯正パラダイムでは非常によくある。「最も悪いところを最初に処置する」といった規則や、類似の経験則は、明らかに戦略的規則である。それらは、局所と、それに関連する機能障害の領域を処置することだけに焦点を当て、身体全体の総体的な反応を無視する。このような施術と思考の仕方は、矯正的なアプローチに典型的なものである。経験則は原理ではないため、さらなる戦略的規則を生み出す論理的な基盤にはなれない。戦略を組み立てる基盤になれないため、それらから、一貫性のある、あるいは合理的な意思決定の過程を進めることはできない。

説明のため、検査過程と上記の規則によって、施術者が患者の腰部を処置することになったと想像してみよう。クライアントの腰痛に関連する局所的な領域を解放するための戦略や戦術は、身体全体が、その徒手的な働きかけを支え、それに適応できるなら、よい結果を生む。身体全体が、局所への徒手的な働きかけに適応できず、それを支えられないなら、局所は機能障害の状態へ戻るか、ストレインがほかの場所へ押しやられ、時にはほかの機能障害の領域を悪化させる。予想どおり、患者がよくならず、身体の別の場所に新たな問題が現れたり、ほかの機能障害の領域が悪化したりすれば、そのような規則に従う施術者は、何が起きているのか、次にどう進めればよいのかを理解できず、途方に暮れることが多い。そうした転機に、導きとなる原理がなければ、ほかの戦略をやみくもに探し回るか、同じ効果のない治療手順を、セッションごとに続けるかの、どちらかへ容易に流される。明らかに、どちらの方法も、望ましい結果を生む可能性は低い。

矯正的なアプローチは、その性質上、損傷や局所的な介入が身体全体にどう影響するかを、根本的に認識できない。そのため、矯正パラダイムの中で、処置を導く、一貫性のある原理の組を組み立てることは、論理的に不可能である。矯正を行う施術者が、生きた形態についての非機械論的な理解を受け入れるなら、身体を、損傷や介入に全体として応答する、統一された全体とみなすよう導かれるだろう。また、身体が損傷の周囲に代償を作り、介入を支えたり、支えられなかったりする仕方にとって、重力が重要であることも理解すれば、身体全体の精妙な溶け合いが、不均衡、損傷、介入にどう応答するかについて、より豊かで十分な理解へと導かれるだろう。

重力についてのロルフの洞察の重要性に目覚め始める徒手療法家が、ますます増えている。「経験豊かな臨床家であっても、重力を全身的なストレス要因として認識するよう視野を広げ、それまで考慮していなかったパターンの部分にも機能障害を探すよう、診断のための検査を広げれば、臨床上の鋭い判断力を高められる」。[9] この、より豊かな理解に支えられて、論理と経験は、施術者を必然的に全体性のパラダイムの方向へ導くだろう。すべての介入の原理が満たされなければ、どの原理も満たすことはできないと、ほどなく気づくだろう。その結果、純粋に矯正的なアプローチは、一貫性のある、あるいは完全な原理の組に、暗黙にも明示的にも基づくことができないため、臨床での意思決定の合理的な基盤を提供できないと、結論づけざるを得なくなるだろう。

原理の本性と全体性のパラダイムをめぐるあらゆる混乱を考えると、原理は患者一人ひとりの必要に合わせて修正できるという、広く行き渡った、しかし誤った考えがあることに、驚くべきではない。それでも、矯正パラダイムについてのこれらの観察から、臨床の場に矯正的な実践の居場所はないと結論づけるべきではない。患者の機能障害を解消するには、矯正的なアプローチで十分な場合も多い。そのような場合に、さらに全体性を重視するアプローチを追求しようとするのは、時間の浪費かもしれない。とりわけ、患者が機能の回復だけに関心を持ち、機能の向上には関心を持たない場合にはそうである。しかし、個々のクライアントに、全体性を重視するアプローチと矯正的なアプローチのどちらが適切かを判断することは、原理的に、矯正パラダイムの枠組みの中からは、適切に行えない。その判断は、生きた全体がどう機能し、どう適応するかを理解し、矯正と全体性の両方のパラダイムで実践できる施術者によってなされなければならない。それでも、臨床経験は、定型に依存せず、全体性を重視する、より徹底したアプローチなしには、機能の回復が不可能な場合のほうが多いことを示している。[10]

必要条件と十分条件

介入の原理が臨床の場でどう働くかを十分に理解するには、まず必要条件と十分条件がどう働くかを理解しなければならない。必要条件とは、それがなければ、ある現象が起こりえない条件、あるいは条件の組である。十分条件とは、それが存在すれば、ある現象が起こることを保証するのに十分な、条件、あるいは条件の組である。たとえば、酸素は火の必要条件である。酸素がなければ、火は生じえない。もし酸素が十分条件なら、ただそれが存在するだけで、火を生じさせるのに十分なはずである。酸素が単独で存在するだけでは、火を生じさせるのに十分ではないため、酸素は必要条件ではあるが、十分条件ではない。

必要条件がどう働くかを説明するため、私たちが「適応性の原理」と呼ぶものを見てみよう。適応性の原理は、身体が、高い適応性と可塑性を持つ、生きた全体であるという観察と理解に基づいている。身体が、たとえば自動車事故で損傷すると、元の損傷のパターンに関連して、代償のパターンが生じることが多い。自動車事故は、身体のある「部分」に局所的な問題を起こすだけではない。全体に及ぶストレイン・パターンを生み出し、それがさらに、重力の中での身体全体の組織化と機能に影響する。元の損傷のパターンは、多くの場合、それ以前の損傷や姿勢の不均衡の上に重なる。こうした不均衡や損傷のパターンは、そこから生じる、重力に関わる代償のパターンとともに、身体全体にわたる、可塑性と適応性の複雑な喪失をもたらす。身体が日々の活動の中で重力と格闘するにつれて、時間とともに、動き、可塑性、適応性のさらなる喪失が現れる。ストレインと代償のこうした複雑なパターンが、適切な順序で解放されなければ、身体は、元の損傷部位や、ほかの機能障害の領域を解放するための介入に、適切に応答することができない。

適応性は、考えうるどのような臨床の場でも、明らかに重要である。機能を回復、あるいは向上させようとするすべての試みは、提案された介入戦略に身体が適応できるかどうかを、考慮しなければならない。身体が、一つの介入、あるいは一連の介入に適応できなければ、機能障害の状態へ戻るか、さらなるストレインが身体のほかの領域へ押しやられるか、あるいはその両方が起こる。ある療法の中で可能などのような戦略にも、身体がまったく適応できないなら、その療法の体系では、患者の身体の機能障害を処置できず、ほかの療法を見つけなければならない。したがって、適応性の原理は、「正常な機能を回復、あるいは向上させようとするあらゆる試みは、介入に適応する身体の能力に依存する」と述べる。この原理は、介入に適応できるよう身体を準備することが、機能を回復、あるいは向上させようとするあらゆる試みに、常に先行しなければならないと述べるのではない。適応性が、適切な介入の必要条件であると述べるだけである。

酸素が火の必要条件であるのと、ほぼ同じように、身体が介入に適応する能力は、機能の回復や向上の必要条件である。火を起こす技についての原理は、「火を起こすことは、酸素の存在に依存する」と述べられる。火を起こそうとしていて、酸素が存在するなら、原理は満たされており、火を起こすことができる。同様に、患者の腰痛を和らげるために、骨盤の上方へのずれ、後方へ捻転した仙骨、第5腰椎に対する第4腰椎のタイプII機能障害に、徒手的に働きかける必要があると判断し、提案した徒手的な戦略に身体が適応できるなら、原理は満たされている。ほかの条件が同じであれば、技法の適用に進める。身体が、提案した戦略に適応できないなら、まさに適応できないその領域で、身体を準備しなければならない。患者の病状が重すぎて応答できない場合、あるいはほかの理由で、提案した身体療法に十分には適応できない場合には、ほかの形の療法を見つけなければならない。

クライアントの身体の適応性の程度に応じて、準備のための施術は、腰痛に関連する領域へ徒手的に働きかける前にも、後にも、同時にも行える。もし適応性が十分条件なら、介入するたびに必ず、徒手的な働きかけを受けられるよう身体を準備することが求められるだろう。しかし明らかに、そのような要件は強すぎる。したがって、介入の原理は、正常な機能や向上した機能が現れうる必要条件を述べる。原理は十分条件を述べないため、正常な機能や向上した機能が現れるには、ほかの条件も満たされなければならないことは明らかである。たとえば、熟練し、知識を持つセラピスト、進んで取り組み、予約どおりに来る患者、患者についての優れた評価などである。これらの考察を念頭に置いて、原理へと進もう。

[1] フィリップ・E・グリーンマン、『徒手医学の原理』(ボルティモア:ウィリアムズ&ウィルキンス、1989年)、182頁。

[2] R・C・シェーファー、L・J・フェイ、『モーション・パルペーションとカイロプラクティック技法――動的カイロプラクティックの原理』(ハンティントンビーチ:モーション・パルペーション研究所、1990年)、33頁。

[3] ロン・クルツ、『身体を中心とした心理療法――ハコミ・メソッド』(メンドシーノ:ライフリズム、1990年)、29頁。

[4] ロバート・C・ウォード、「筋膜リリースの概念」、『合理的な徒手療法』(ボルティモア:ウィリアムズ&ウィルキンス、1993年)所収、237頁。

[5] フレッド・L・ミッチェル・ジュニア、「マッスル・エナジー・テクニックの要素」、『合理的な徒手療法』(ボルティモア:ウィリアムズ&ウィルキンス、1993年)所収、285頁。

[6] G・D・メイトランド、『脊柱マニピュレーション』(ボストン:バターワース・ハイネマン、1986年)、3頁。

[7] G・D・メイトランド、『末梢関節マニピュレーション』(ボストン:バターワース・ハイネマン、1991年)、1頁。

[8] アラン・J・グロディン、ロバート・I・カントゥ、「軟部組織モビライゼーション」、『合理的な徒手療法』(ボルティモア:ウィリアムズ&ウィルキンス、1993年)所収、218頁。

[9] マイケル・L・クチェラ、「重力によるストレス、筋・靱帯のストレイン、姿勢のアライメント」、『SPINE:最新研究レビュー』第9巻第2号(1995年5月)、463–490頁。

[10] これらの点を詳しく示す二つの研究については、ジョン・コッティンガムとジェフリー・メイトランドによる、次の論文を参照。「慢性腰痛患者に対し、軟部組織モビライゼーションと、誘導による動作・気づきの技法を用いた、3つのパラダイムからなる治療モデル――事例研究」、『整形外科・スポーツ理学療法誌』第26巻第3号(1997年)、155–167頁。「筋萎縮性側索硬化症患者の治療のために、徒手療法と動作療法を哲学的カウンセリングと統合する――全体性を重視する介入の原理を探究する事例研究」、『健康と医療における代替療法』第6巻第2号(2000年)、120–127頁。

05 / QUESTIONS

記事5第4章 介入の原理

第4章 介入の原理

介入の原理は、機械の秩序づけられ方ではなく、生物学的秩序の本性を反映しなければならない。生きた身体は、あらかじめ形づくられた部品から作られる、柔らかな機械ではない。むしろ、発達する全体である。それは、自らを形づくり、自らを組織し、自らを感じ取る、継ぎ目のない統一された全体であり、そこでは、どの側面や関係も、全体そのもの以上に、全体の組織化にとって重要ではない。原理と生物学的秩序の関係について考え始める方法として、メルロ=ポンティの類比を考えてみよう。「シャボン玉においても、生物においても、各点で起こることは、ほかのすべての点で起こることによって決定される。しかし、これこそが秩序の定義である」。[1] この種の秩序は、生きた全体を特徴づけ、全体性を重視するあらゆる療法の核心と基盤にある。それは、施術者に、全体性に即して考え、知覚する能力を求める。身体の各部分が全体を反映するのと同じように、それぞれの原理は、ほかの原理を反映する。それらは互いの変奏であり、ほかの原理から切り離して適用できる原理は一つもない。全体性の原理は、ほかのすべての原理を統べる包括的な原理であり、それらが互いに関係しながら、どうともに働くかを述べる。

全体性の原理

すべての原理が完全に満たされなければ、どの原理も完全には満たされない。

全体性の原理は、全体性を持つ体系の中で、介入の原理がどうともに働くかを統べ、それを述べるため、正しくはメタ原理と呼ばれる。原理は臨床での意思決定の基盤であるため、どのような介入、セッション、一連のセッションにも、常に、すべての原理を同時に、相互に関連づけて適用し、理解することが含まれる。全体性を重視する介入の根本原理は、メルロ=ポンティのシャボン玉の類比、「各点で起こることは、ほかのすべての点で起こることによって決定される」に反映されている。

どのような介入、あるいは一連の介入にも、評価の5つのカテゴリー、すなわち分類体系にわたって、クライアントを徹底して検査し、評価することが必要である。その中には、評価の各カテゴリーで、どの原理が満たされており、どの程度よく、あるいは不十分に満たされているかを判断することも含まれる。すべての戦略と戦術は、人全体の中で、それぞれの原理がどの程度よく、あるいは不十分に満たされているかに基づいて組み立てられる。すべての原理は、個々のクライアントにとって、形態上、何が適切で、何が可能かに即して適用されなければならない。その際には、その人に固有の、変化する制約と変化しない制約の組み合わせ、そして重力と環境との関係を考慮する。

適応性の原理

統合は、絶えず変化する内的環境と外的環境に、人全体が適切に適応する能力に依存する。

人全体を新たな統合の水準へ導こうとするあらゆる試みは、介入、あるいは一連の介入に、人全体が適切に適応する能力に依存する。人全体が、介入、あるいは一連の介入に適応できなければ、1)ソーマは、介入前の秩序の乱れ、機能障害、あるいは病気の状態に戻る、2)ストレインと秩序の乱れが、系のほかの場所へ押しやられる、3)その両方が起こる、のいずれかとなる。

支持の原理

統合は、利用できる支持に依存する。

支持の原理は、適応性の原理の特定の適用である。それは、時空、環境、重力が、等しく根源的な関係であり、その中に人全体が参与し、それらと関係しているという認識に基づく。垂直へ向かう私たちの心理生物学的な本性の組織化と統合は、全体が自分自身とどう関係するかだけでなく、全体が重力と環境にどう関係し、それらを自らのものとするかにも依存する。より高い秩序の水準が可能となる程度は、時空、重力、環境の制約の中で、人全体がどの程度支持を見いだすかに依存する。

身体療法に対するロルフの最も重要な貢献の一つは、常に存在する重力が、身体のあらゆる不均衡と損傷に身体が対処する仕方に、深い影響を与えるという認識だった。彼女はまた、身体の構造と機能を矯正し、あるいは向上させようとする、どのような試みにとっても、重力の中での支持が決定的に重要だと理解していた。たとえば、施術者が脊柱の椎間関節の制限を矯正しようとし、脚が上半身を適切に支持していなければ、その介入はストレインをほかの場所へ押しやり、時にはほかの機能障害の領域を悪化させるか、脊柱が機能障害の状態に戻るか、あるいはその両方が起こる。

支持の原理は、ロルフの重力の原理である。それは、常に存在する重力の影響に身体がどう適応するか、あるいは適応できないかを強調するため、適応性の原理よりも具体的である。

連続性の原理

統合は、適切な連続性に依存する。

支持の原理と同じように、連続性の原理は、適応性の原理の特定の適用である。適切な連続性が失われると、健全な機能と正常な協調した活動が損なわれる。機能的な統合性、形態的な同一性、系としての一貫性、階層的な組織化は、評価の5つのカテゴリーが記述する、人全体のあらゆる水準を通した、適切な連続性のうちに現れる。すべてのソーマは、生きている以上、何らかの程度の連続性を示す。ソーマの連続性と一貫性の程度は、機能障害からの自由に依存し、したがって、正中線を中心に自らを組織することで、垂直へ向かう仕方で重力を自らのものとする、その自由に依存する。

パリントニックの原理

統合は、パリントニックな調和に依存する。

パリントニック性は、直交する関係が現れるとともに現れる(たとえば、X、Y、Z軸、あるいは矢状面、冠状面、横断面において、水平と垂直の線や面が直角に交わる関係である)。関節部に水平が現れることと、正常な協調運動が生じることは、ともに起こる。人が身体的な統合に近づくにつれて、評価の5つのカテゴリーが記述する、環境との関係における人全体にわたって、パリントニックな調和が現れ始める。

介入、あるいは一連の介入の成功は、適切な空間的関係に依存する。たとえば、後ろと前、両側、上と下、内側と外側、そして直交する均衡である。パリントニックな調和は、身体が身体的な統合に近づくにつれて、きわめて明瞭になる、秩序の空間的、身体的な幾何学を記述する。それは、統合されたソーマが空間を動くとき、そのすべての構造、空間、体積、面の間に生じる、対立の統一を表す。後ろと前、内側と外側、両側、上と下の関係が、互いとの関係、および重力との関係において均衡へ近づくときに存在する、対立の統一、あるいは均衡した張力を記述する。また、パリントニックな調和は、人全体が統合に近づくにつれて、5つのカテゴリーが記述する、そのすべての側面の間に生じる対立の統一も記述する。これらの関係のいずれかが、どの程度確立されるかは、それらすべてが、重力と環境との関係において、どれほどよく確立されているかに依存する。

パリントノスはギリシア語である。ソクラテス以前の偉大な哲学者ヘラクレイトス(紀元前500年頃)が、次の箴言で使った言葉である。「彼らは、それが自らと異なりながら、いかに自らと一致させられるかを理解しない。弓と竪琴のような、パリントニックな調和を」。パリントノスは、文字どおりには「前後に引き伸ばされた」を意味する。したがって、対立の統一、あるいは均衡した張力を意味する。

終結の原理

すべての介入、セッション、一連のセッションには、始まり、中間、終わりがある。

終結は、人全体が、その人の変化する制約と変化しない制約に即して、導入された変化を、それ以上の介入なしに維持できるときに達成される。介入、セッション、一連のセッションの結果を最適化し、安定させるためには、新たに現れてくる秩序のパターンを、その最も高い統合の水準へ導かなければならない。

生涯の終わりまで療法を必要とするように見える患者もいるが、それでも、すべての治療的介入、すべてのセッション、すべての一連のセッションには、さまざまな程度の終結がある。「同じことをさらに続ける」ことは、やがて、別のアプローチへ移ること(自分の療法の体系内で、あるいはほかの体系へ移ること)、一定期間、療法を中止すること、あるいは最終的に療法を完全に終えることに、道を譲らなければならない。

原理を中心とした意思決定の一例

療法の3つの問い、「最初に何をするのか、次に何をするのか、そして、いつ終えるのか」に、介入の原理に従って答えるためには、患者の徹底した検査が必要である。自分の介入の体系という文脈の中で、検査は、評価の5つのカテゴリーにおける、患者の秩序を妨げるものすべてを見つけ、全体のどの水準を向上させる必要があるかを判断するよう努めるべきである。全体性を重視する施術者は、毎回のセッション、あるいは介入の前に、次のように問うべきである。

評価の5つのカテゴリーが示す、人全体のどの側面を、適切に正常化し、組織し、向上させれば、全体に最も高い水準の統合をもたらすことができるだろうか。

続く評価では、提案された介入の戦略と戦術に適切に応答し、その結果を維持するために、身体がそれに適応できるか、支持できるか、あるいは十分な連続性とパリントニックな均衡を備えているかを判断しなければならない。十分な適応性、支持、連続性、パリントニック性がなければ、階層的な秩序のこれらの条件を、一つずつ、一連の介入の中で確立しなければならない。その介入の順序は、身体の機能障害を正常化するとともに、個々のクライアントに可能な、最も高い水準の統合を促すものでなければならない。

単純化した例を考えてみよう。腰痛を持つクライアントの最初の検査で、神経根障害はなく、腰部と骨盤部に、筋膜と関節の固着が複雑に広がっていることがわかったとする。クライアントの身体の中で、すべての原理がまずまず満たされていれば、筋膜と関節のストレインの領域を処置することへ、直接進める。しかし、そのような事例は、ほとんど存在しないと言ってよいほど、きわめてまれである。通常、大半の身体には、複雑に広がる不均衡と損傷があり、それに伴って、典型的なものも、それほど典型的でないものも含む、多くの代償のパターンが、ソーマ全体を貫いている。

検査では通常、ある原理はほかの原理よりもよく満たされていることと、大半の身体は、正常化と向上が現れ始めるまでに、何回かのセッションを必要とすることが明らかになる。想定したクライアントが大半の人と同じであれば、腰痛は、さまざまな程度のパリントニックな不均衡、適応性の喪失、支持と連続性の不足を示す構造の中に組み込まれている。たとえば、首、腰部、骨盤の屈筋と伸筋において、主動筋群と拮抗筋群の間に不均衡がある患者は、パリントニックな不均衡の一種を示している。こうした後ろと前の均衡の不足は、横から見ると後方へ反り返る、過度に直立した身体によく見られる。伸筋と屈筋の均衡の不足は、内側と外側の不均衡にも存在しうる。たとえば、腹直筋が大腰筋よりも強い場合である。支持の不足は、一方の脚が他方よりも強く外反し、外旋している身体や、足が過度に回内していて、傾いた骨盤の位置を変えても、その新たな位置を支えられない身体によく見られる。適応性の喪失は、大半の身体の至るところに見いだされる。大半の人では、上部胸椎、肋骨、肩甲帯、時には腕と頭蓋にも、筋膜と関節の固着が複雑に広がっており、脊柱下部と骨盤の大きな変化に適応できない。それより少数の人では、上部領域には適応できるだけの柔軟性があるが、下部領域がきわめて強く制限されている。そのため、脚が適切な支持を与えていても、骨盤と腰部に変化を導入しようとする試みは、下腿と足の固着にぶつかって跳ね返される。

最初の検査時に、そして技法を適用している間も絶えず、全体性を重視する施術者は、それぞれの原理がどれほどよく満たされているか、どの原理がほかよりもよく満たされているか、そしてそれぞれをどの順序で満たすべきかを判断しなければならない。検査によって、クライアントが頭蓋、頸椎、体腔嚢に固着を持つために適応できないこと、身体が提案されたどの戦略も支持できないこと、あるいは後ろと前に大きな不均衡があることが明らかになれば、施術を始めるのに最適な領域を決めなければならない。そのような場合に、脚と足への施術から始めることは、通常、誤りである。下部領域への施術による解放は、必然的に身体を上方へ伝わるため、この戦略からは二つの問題が生じる可能性が高い。1)足と脚に働きかけることで、上部領域の固着がより強くなること、2)上部の固着が、下部領域に起きた変化の維持を妨げることである。後ろと前の均衡に作用しようとする試みも、同じ種類の困難にぶつかるだろう。そのため、最初の介入は、多くの場合、上部領域が適応できないことに向けられる。実際、胸郭には複雑なストレインが現れることが多いため、定型的な10回シリーズの第2セッションで指示される、足と下腿への施術は、時期尚早である可能性がある。

第1セッションで、適応性に関する十分な数の問題に対処できれば、次のセッションでは、支持の問題か、パリントニックな問題のいずれかを扱える。適切に徒手的な働きかけを行った場合、どちらが人全体に最も利益をもたらすかによって選ぶ。クライアントの身体によっては、支持が、パリントニックな不均衡よりも重要な問題であるかもしれない。適切な支持を確立することで、パリントニックな問題が和らぐ場合もあれば、パリントニックな問題を和らげることで、よりよい支持が生まれる場合もある。クライアントの脊柱の弯曲が過度である場合には、その脊柱に適切に働きかける前に、身体全体、とりわけ四肢に適応性を生み出すこと、そして支持と後ろと前の均衡を生み出すことに、ある程度注意を向けなければならないことが、経験から示されている。

時には、腰部と骨盤部の固着、すなわち秩序を妨げるものに働きかける準備ができたと考えたところで、クライアントが子どもの頃に性的虐待を受け、その虐待に関する問題を解消していないことがわかる場合もある。この発見は、骨盤への施術を試みれば、おそらく無意識の抵抗に遭うことを意味する。クライアントは、私たちの戦略に適応できないだろうから、私たちの施術か、別のセラピストの介入を通して、これらの問題を十分に解消するまで、骨盤への施術を延期しなければならない。支持やパリントニックな均衡を確立しようとする試みが、身体のほかの領域に予期しなかったストレイン・パターンを生み出したり、それまでに達成した組織化の水準を乱したりすることもある。そのような場合には、それらを再び、あるいは新たな方法で確立しようとしなければならない。

何回かのセッションの後、できる限りの判断を尽くして、原理が十分に満たされたと判断すれば、骨盤と腰部への施術に進み、クライアントが、ある程度より持続的な痛みの軽減を得ることを、合理的に期待できる。しかし、痛みを和らげることは、クライアントの身体の機能障害を解消することや、構造的統合を通して機能を向上させることと同じではない。人全体の構造と機能を向上させるという、全体性を重視する重要な目標を達成するには、通常、さらなる施術が必要である。しかし、構造的統合という目標は、解消されていない痛みと機能障害によって、常に制限されることを忘れてはならない。

全体性を重視する施術者は、再び問う。「人全体のどの側面を正常化し、向上させれば、全体の組織化と機能に、最も利益をもたらすだろうか?」適切な検査と評価によって領域を決めたら、次に、提案する変化を維持し、その後も安定を保つための、十分な適応性、支持、パリントニックな均衡が、クライアントの身体にあるかを問う。原理に関する問いのどれかに対する答えが「いいえ」であれば、その原理が指定する条件を確立しなければならない。それぞれの原理が指定する条件が確立され、あるいはすでに確立されていると判断されるにつれて、施術者は、クライアントが対応できる、次の、より高い秩序と機能の水準を確立することへと進む。それを、身体が達しうる最も高い水準に達するまで続ける。人全体が、その人の変化する制約と変化しない制約の範囲内で可能な、最も高い統合の水準に達したとき、さらなる療法は時間の浪費となり、終結が達成される。療法は終わり、クライアントの身体は、その発達を妨げる、次の一つ、あるいは複数の固着の水準にぶつかるまで、自ら変化し、発展し続ける。

クライアントが、痛みの軽減のために来るのであれ、構造的統合と機能の向上のために来るのであれ、意思決定の過程は同じである。当然ながら、その過程は、上記の例が示すものよりも、はるかに複雑でありうる。論じたものよりも、はるかに多くの評価の類型に及ぶことも多い。戦略と戦術、そして原理が満たされる順序と深さは、評価の5つのカテゴリーにわたる、クライアント一人ひとりの固着の水準と深さに応じて、人ごとに、セッションごとに異なる。戦略と戦術は、それぞれのクライアントの必要に合わせて作られ、放棄される。しかし、介入の原理は、臨床上のすべての決定が、それに照らしてなされる導きの光であり続ける。

[1] モーリス・メルロ=ポンティ、『行動の構造』(ボストン:ビーコン・プレス、1963年)、131頁。

06 / ACCESS

記事6第5章 心理生物学的評価――肉と思想の絡み合い

第5章 心理生物学的評価――肉と思想の絡み合い

原理を中心とする合理的な意思決定の過程は、いくつもの要素に依存する。介入の原理を理解するという明白な必要に加えて、高度に発達した一連の評価の技能も必要である。それは、クライアントの統合と健康を妨げている、秩序を妨げるものを、施術者が特定できるようにするための技能である。第2章では、評価と介入の5つの類型を簡単に描いた。本章では、評価の問題を再び取り上げ、事例を通じて、心理生物学的な類型の性質を示したい。不健全な世界観への固執、身体的・情動的なトラウマ、混乱した思考過程などは、すべて心理生物学的評価のカテゴリーに入る例である。

驚くべきことに、不健全な世界観への固執は、抑圧された情動とよく似た影響を及ぼしうる。プシュケーとソーマは、深く絡み合っているため、両方が解放されなければ、どちらも他方から独立しては解放されないことが多い。二つの極端なあり方が可能である。人の世界観が肉の歪みに根を下ろしている場合と、身体の機能障害が問題のある世界観と融合している場合である。

「ちょっと待って!」と、あなたは思うかもしれない。「これらは、徒手療法の範囲を超えた精神保健上の問題ではないのか。精神科医、心理療法家、カウンセラーといった、訓練を受けた精神保健の専門家が扱うほうがよいのではないか?」一般的に言えば、これらは徒手療法の実践の範囲を超えており、徒手療法は心理療法の代わりにはならない。しかし、徒手療法が、心理療法の過程で、大きな支えとなり、助けとなることもある。心理的な問題が肉の歪みに根を下ろしている場合には、特に役立つ。こうした身体の固着が認識されず、適切に扱われなければ、療法の進展を妨げることがある。

たとえば、徒手療法家が、変化に対して特に防御的に見えるクライアントの身体の領域に働きかけているとき、突然、クライアントが感情に圧倒され、すすり泣き始めることは、珍しくない。すすり泣きが収まると、クライアントの身体の、制限されていた領域が、容易に解放される。抑圧された感情や記憶は身体に根を下ろしているため、全体性を重視する徒手療法は、それらを解放するうえで、大いに役立ちうる。そうでなければ、それらが扱われないことで、療法は行き詰まり、先へ進めなくなることがある。

逆もまたよくある。単に構造的、すなわち身体的な問題と考えられることの多いもの――たとえば「位置がずれている」椎骨や、前方に傾いた骨盤――が、不健全な世界観への固執によって、部分的に維持されている場合がある。徒手療法家が、こうした認知の固着を認識せず、あるいはその扱い方を知らなければ、それがクライアントの進展を妨げる可能性が高い。

健全で統合された人の徴の一つは、葛藤を伴う思考の仕方から、高度に自由であることにある。それに対して、葛藤を伴う思考の仕方を身体に生きることは、不健全な見方を採用するだけにとどまらない。身体が、肉を歪めることによって、歪んだ思考の仕方を表すことは、珍しくない。

心理生物学的な志向性、あるいは方向づけと呼ぶ評価の類型が、治療の組み立てにどう関わるかを明らかにするため、いくつかの事例を検討する。しかし、その前に、用語について三つ述べておく必要がある。残念ながら、英語には、人間という人の全体を表しながら、身体を心から切り離された、ほかのものと同じ一つの対象と考える、何らかの形而上学的二元論を、あらかじめ含意したり、前提としたりしない、一つの言葉がない。「心理生物学的」という言葉は、幾分その逆の方向に進み、心と身体の区別を十分にぼかすように思われる。志向性の概念については、第6章で論じる。最後に、はじめにで指摘し、第2章と第10章でさらに説明するように、私は「機能障害」や「固着」といった言葉の代わりに、「秩序を妨げるもの」という言葉を使う。それは、苦しみのパターンが、孤立した症状としてではなく、関係の中に生きていることを含意するからである。

これらを述べたうえで、心理生物学的評価の議論に戻ろう。すでに述べたように、セッション中に介入を行う順序は、介入そのものと、まったく同じくらい重要である。知覚できない、秩序を妨げるものを、変えることはできない。偶然の場合を除いては。評価は、高度に熟練した知覚の一形態である。それぞれの評価の類型に特徴的な、秩序を妨げるものを認識し、それらを変える手段を使えるようになるには、訓練と実践が必要である。

事例1:姿勢を崩すのが怖い

この事例は、理論への信念が、いかに人を硬直させうるかを示す、わかりやすい例である。

ロバートは、私がウィリアム(ビル)・スマイスと共同で教えたアドバンスト・ロルフィングのクラスで、モデルとしてロルフィングのセッションを受けた。ビルは、アドバンスト・ロルファーであり、トラウマ・ワークの達人である。ロバートは最初のセッションに来たとき、身体の痛み、多くのストレイン、全体的な硬さを訴えた。さらに、何年も前に受けたロルフィングが、長く続いたうつ状態から自分を解放してくれたことを話した。ロルフィングによって、崩れ落ちていた身体は、より直立した姿勢を見いだすことができた。しかし重要なことに、彼はその姿勢を硬直したまま保ち、融通のきかない理想的な姿勢の概念に、緊張に満ちた身体を合わせ続けていた。ビルは、彼がこの過度に直立した姿勢を維持しているのは、再び崩れ落ちてうつ状態に戻ることを恐れているためだと、正しく知覚した。長年の間に、この硬直した姿勢は、ほとんどセメントで固めたように定着し、多くの不快感を引き起こしていた。彼は、それを和らげるために、さらなるロルフィングのセッションを求めたが、効果はなかった。受けた施術の多くは、力が強く、痛みを伴うものだった。ビルは、力を使う方法の無益さをすぐに認め、異なる仕方でセッションに臨んだ。ロバートの硬直の一部が、トラウマによって引き起こされた不動反応に根ざしていると理解し、交感神経が高度に亢進した状態で動かなくなっているソーマの側面を解凍するために、非常に穏やかな技法を巧みに用いた。この戦略はよく働いた。そして、「理想的な身体」という概念が持つ問題と、それへの固執がどう不快感を生み出しているかについての、少しの哲学的カウンセリングを組み合わせることで、ロバートはついに硬直を手放し、深く抱え込んでいた苦悩の一部を解放することができた。その結果、緊張は消え始め、生活は楽になった。

事例2:身体によって維持される世界観

この事例は、ストレイン・パターンを和らげ、身体と、身体の重力との関係に、より高い水準の組織化を導入することが、人の倫理観と世界観を、いかに根本から変えうるかを、劇的に示している。人の世界観が、身体によって維持されうることの、明瞭な実例である。

ベスがロルファーとしての私の施術を求めたのは、30代半ばのときだった。彼女は、きわめて知的で、機知に富んでいた。男性を信頼していなかったため、私を警戒し、施術を始めた初期の頃には、自分自身についてほとんど話さなかった。ある程度私を信頼するようになって初めて、父親がひどく虐待的だったと話した。父親は、彼女をよく「ちっぽけなクソ」と呼んだという。彼女は、10歳の息子を持つシングルマザーだった。いくつもの恋愛関係の失敗と、非常に困難な結婚と離婚を経て、男性との関係を持とうとすることを諦め、レズビアンとしての生活を選んだ。女性の恋人と暮らし、生活費を何とかやりくりしようと、ウェイトレスとして懸命に働いていた。

彼女の身体は、その外見が驚くほど未成熟だった。施術前の写真で顔を隠すと、怯え、気落ちし、しぼんでしまった12歳の子どものように見えた。しかし、わずか数回のセッションの後、私はかなり劇的な変化に気づいた。ロルフィングに特徴的な、姿勢の明らかな改善と、動きの楽さの増大に加え、彼女の身体は成熟し始めた。より生き生きとし、身体が実際の年齢に追いついた。ほとんど一夜にして、成熟した女性に見えるようになった。変化はあまりに劇的で、友人たち全員がそれについて言葉をかけた。

3回目のセッションの後、彼女は万引きをやめたと私に話した。その時まで、彼女がそのようなことをしていたとは、まったく知らなかった。彼女は、父親や、それまでの人生で関わった男性への怒りを、店の所有者だと想像していた裕福な男性たちに投影していたことに、突然気づいたと話した。万引きは大きな百貨店でしかしていなかったと言った。彼女は、その男性たちは必要以上のお金を持っていること、人生で出会ったほかのひどい男性たちのせいで経験した苦しみに対して、自分には何らかの埋め合わせを受ける権利があること、そして生活費をやりくりするのが大変であることを理由に、自分の行動を正当化していた。

万引きをやめてから3、4回のセッションの後、彼女は女性の恋人との関係を終えたと話した。ほかのすべての人と同じように、自分も人生に温もりと愛を求めていると認めた。しかし、男性との経験があまりに苦痛に満ちていたため、男性とのどのような親密な関係を求めることも、怖くなりすぎていたと認めた。それで、代わりに女性の恋人を選んだのだった。自分の必要を満たすために同性愛を使っていることに気づくと、恋人を利用するその仕方は、もはや自分にとって正しくもなく、恋人にとって公平でもないと気づいた。

彼女がこれらの気づきを話すまで、ベスと私は、万引きについても、彼女のセクシュアリティについても、一度も話していなかった。心理生物学的な方向づけのこうした変化には、彼女自身で至ったのである。私がしたのは、彼女の境界を侵さず、低い自尊心をさらに損なわないように、敬意を持って身体に働きかけることだけだった。もし万引きについて私の意見を尋ねられていれば、哲学的カウンセラーとして、その行動の倫理について話し合っただろう。しかし、振り返ってみると、万引きの倫理についてどんな議論をしても、無益だっただろうともわかる。万引きは、男性に対する痛みと怒りに融合し、未成熟で動きのない身体構造に、あまりに強く縛られていた。たとえベス自身が話題にしていたとしても、万引きの倫理を扱おうとするどんな試みも、彼女を、私との施術を終えることへ追いやっただろうと、私は確信している。私はおそらく、彼女がどれほどひどい人間かを言い聞かせる、独善的な父権者の一人としか見られなかっただろう。

彼女の不動性と未成熟な外見は、それまでの人生のトラウマに結びついていた。ある程度、解離しており、身体は交感神経が高度に亢進した状態で凍りついていた。重いトラウマを受けたほかのすべての人と同じように、自分を守る能力の多くを失っていた。施術の初期段階での目覚ましい変容は、私とロルフィングの過程を信頼できるようになったことから始まった。ロルフィングによる徒手的な働きかけが、筋膜のストレイン・パターンを和らげるにつれて、高度に高ぶった交感神経の状態を解放し、自らを感じ取る感覚を明瞭にすることができた。その結果、身体に本来備わっている可動性と内在的な動きの能力を、より多く取り戻し、失っていた資源の多くを回復した。そして、自分をよりよく守り、世話することを学んだ。訓練を受け、給料のよい仕事に就くことで、経済状態を改善した。恐れを解放し、自らを感じ取る感覚を明瞭にするにつれて、自分自身と身体を信頼し、より成熟した未来へ向かう選択を、それらに導いてもらえることを学んだ。

この事例が特に興味深いのは、ソーマの組織化、内在的な動き、可動性の変化が、人の世界観を根本から変えうることを示しているからである。ベスの心理生物学的な方向づけに起きたこれらの変化は、ロルフィングの筋膜への徒手的な働きかけの、直接の結果だった。哲学的カウンセリングも、どのような言語的療法も、時間の浪費になっただろう。安全な治療環境の中でロルフィングを経験したという事実も、彼女の変容にとって決定的な要因だった。しかし、施術の初期段階では、私は哲学的な技法も、心理療法的な技法も、まったく用いていなかったことを理解するのが重要である。

この事例は、私たちの肉が、私たちの考えと、生き方に対して行使しうる、深い拘束力を明瞭に示している。また、心理療法と哲学的カウンセリングのどのセッションでも、身体を相応に重視することの重要性を強調している。言語的な介入の論理に肉が同意しなければ、その人の世界観には、大きな変化が起こらないかもしれない。そして、この事例がこれほど明瞭に示しているように、人の人生観を変えるために必要なのは、時には、肉にもう少し秩序を与え、自らを感じ取る感覚をもう少し明瞭にすることだけなのである。もちろん、いつもこの事例が示すほど単純なわけではない。また、私は、セラピストが、人の性的指向を変えることを自分の仕事とすべきだと勧めているのではない。

事例3:哲学によって維持される痛み

ドナの事例は、ベスのものより少し複雑だが、人の暗黙の世界観が、痛みの維持にどう寄与しうるかを、興味深い仕方で示している。ドナは、30代後半の、結婚して働いている女性で、二人の子どもの母親である。動くと強まる右肩の痛みを和らげるため、ロルフィングを求めた。私たちの理学療法クリニックで、私とほかのセラピストから、何回かのセッションを受けた。そこでは、実践の3つのパラダイムを統合することに基づいた、チームによるアプローチを行っていた。受けた徒手療法では、ほとんど、あるいはまったく痛みは和らがなかった。私たちのクリニックで数週間、療法を受けた後、彼女は医師のもとへ戻った。医師は、肩峰に骨棘があることを発見し、手術を勧めた。手術の後、ドナはさらに徒手療法を受けるため、クリニックに戻った。手術による合併症はなく、痛みは軽減へと順調に向かっていた。残念ながら、運命が割って入り、彼女は自動車事故に巻き込まれた。痛みは激しさを増して戻った。事故の後、数か月にわたり、クリニックで集中的な徒手療法を受け続けた。私は、少なくとも週1回、彼女に施術した。大半のセッションの後には、ある程度痛みが和らいだ。しかし、痛みは必ず戻ってきた。数時間以内の場合もあれば、1日以内の場合もあった。

初めのうち、ドナが、ほとんど強迫的とも言える仕方で、自分の状況について絶えず不満を訴え、心配していることに、私は気づかなかった。そもそも、彼女の痛みは実際にあり、忙しい生活を深刻に妨げていた。よくなりたいと望んでいることは明白だった。過度に物事をコントロールしたがる人でも、強迫症の人でもなかった。痛みが通常の予想をはるかに超えて続く、大半の人と同じように、なぜこんなことが自分に起きたのかと、よく考え、肩は二度と治らないのではないかと恐れ始めていた。肩の損傷や腱板のストレインは、処置が非常に難しいことが多く、よくならない場合もあるため、彼女の恐れには十分な根拠があった。

彼女は、自分の状況について、私と多くの話をした。痛みの形而上学的、精神的な意味について話した。さまざまな活動で身体をどう保つか、どう歩くか、どう座るかなどについても話し合った。寝る姿勢も話題にした。彼女は、腕を頭より上に置いて、横向きに眠ると言った。明らかな理由から、私は、そのように眠らないよう、強く勧めた。彼女は助言に従い、痛みは少し和らいだが、彼女にも私にも満足できるほどではなかった。毎回のセッションで、問題についてますます話し、心配し、日々の動作の仕方を調整し、変える新しい方法を、いつも考え出そうとしていた。ドナは毎回、回復のための最新の戦略と、その結果がうまくいかなかったことへの、心配を伴う失望を話した。私は徐々に、彼女の心配と、痛みに対して何かをしなければならないという欲求が、少し過剰だと気づき始めた。

ついに私は、一つの考えを試すよう勧めた。痛みを持つ人々に長年施術してきて、彼女のような心配の仕方が、癒しを妨げることが多いと気づいたのだと説明した。自分自身の苦しみを過度に振り返り、考え続けることは、時に、回復の深刻な妨げになると話した。よくなるために必要な癒しのエネルギーすべてに囲まれ、そのエネルギーが、働くために身体へ入ろうとして、できることをすべて行っている状況を、想像してもらった。「想像してください」と私は言った。「自分の苦しみに過度にとらわれていることが、まさに、エネルギーがあなたの系に入るのを妨げているのだと。そして、エネルギーが働けるようにするために必要なのは、心配をやめることなのだと」。また、ほんのわずかな痛みのうずきでも感じるたびに、自分がどう反応するかに注意を向け、痛みが現れると、どれほど容易に、また肩のことを考え続け、心配する状態へと放り込まれるかに気づくよう求めた。心配を脇に置き、痛みが現れたとき、それに少しもとどまらないよう指示した。

肩のことを考え続けないで2週間が経つと、痛みは90パーセント減った。この展開に、彼女は大いに励まされた。クリニックでの療法を続け、彼女は改善し続けた。しかし、ほとんど痛みがなくなっていたにもかかわらず、あるセッション中、肩にまだ感じられるわずかな不快感を心配し始めた。残る不快感について話すにつれ、心配が増し、突然、痛みの強さが、事故直後の水準まで上がった。彼女は恐怖に襲われ、私も、彼女が経験している痛みの大きさに愕然とした。

私はすぐに、痛みの全体と、彼女がそれを振り返って考えることで、どのように保持しているかの両方を経験するよう求めた。自分の状況を心配し、振り返って考えるだけで、痛みを戻すのに十分であることに、気づくよう求めた。心配をやめるよう勧めた。彼女はそうし、振り返って心配することを手放すにつれて、痛みは現れたときと同じ速さで消えていった。療法のこの段階では、痛みが現れることを、過度に振り返って考えている徴として使えると、私たちは決めた。その時から、痛みを感じるたびに、彼女はただそれを考えるのをやめ、すると痛みは消えた。

彼女はクリニックでのチームによるアプローチを続け、結果に満足していた。数週間後、私は次のセッションで彼女に会った。痛みはほとんどなく、生活が普通に戻ったと確信していた。肩に施術しながら、私たちは気楽に話した。元ビートルズのポール・マッカートニーの妻、リンダ・マッカートニーが、がんで亡くなったという報道に、非常に動揺したと彼女は話した。私は驚き、読んで知っているだけの人の死が、なぜそれほど動揺を与えるのかと尋ねた。彼女は、リンダ・マッカートニーは菜食主義者で、ヨガを実践し、健康で穏やかな人生を送るために、一生懸命努力していたと答えた。ドナも同じような取り組みに励んでおり、健康に生きるためにそれほど力を尽くした人でも、がんで死ぬことがあると知るのは、不安になると打ち明けた。

興味を覚え、私は、次のようなことを信じているのかと尋ねた。人生をどう生きるべきかを定義する一連の規則があり、それを見つけ、従うために最善を尽くせば、神、あるいは宇宙が、あまりにひどいことは何も起こらないようにしてくれる、と。すぐに肩の強い痛みが再び現れ、彼女の目に涙があふれた。さらに探り、話し合う中で明らかになったのは、彼女は自分の見解を、実際には一度も十分に振り返って意識してはいなかったが、私が言葉にしたものに似た見解を、暗黙に持っていたということだった。結局、この見解が、痛みをコントロールし、対処しようとする過度な試みの核心にあった。正しい生き方と身体の使い方から、どのように外れてしまったかさえ見つけられれば、間違いを正し、困難から自由になれると信じていたのである。

私たちは、彼女の暗黙の前提について、ある程度詳しく話した。私は、その見解に反論しようとはせず、ただ、反省以前の暗黙の世界観と比較できる、ほかの見解を示した。ほかの精神的な伝統では、人生を狂わせうる、偶発的で意味のない出来事が起こる余地を、大きく残していることを説明した。また、神もまた学び、進化していると信じる伝統もあると述べた。暗黙の世界観を、振り返って意識に上らせ、ほかの見解と比較できるようになると、彼女は、実際には自分の見解にこだわっていないことに気づき、その場で手放した。それ以来、肩の痛みはなくなっている。

過度に振り返って考え、心配することを手放すと、ドナの痛みがどれほど速く、容易に消えたかに、私は驚いた。過度な心配を再開したとき、どれほど突然痛みが戻ったかには、さらに驚いた。しかし、リンダ・マッカートニーの死への動揺を話してくれるまでは、過度な心配が、世界の仕組みについての暗黙の哲学的見解に根ざしているとは、わからなかった。その見解は、振り返って意識されないまま、絶えず痛みを問いただし、それを管理する方法を試すよう、彼女を駆り立てていた。彼女は知的な女性で、生活をよく整えていた。世界をコントロールしようとする神経症的な欲求に駆られていたのでもなく、強迫症でもなかった。しかし、カトリックの家庭で育ったことに影響されていたかもしれない、検討されていない世界観が、自分を癒すことについて過度な責任を負わせ、問題とその解決方法について、過剰に考えるよう強いていた。哲学によって維持される痛みの、重い例だったと言えるかもしれない。明らかに、私が純粋に構造的・機能的な仕方で徒手療法を進め、暗黙の世界観を明らかにしなかったなら、ドナは今も痛みの中にいるだろう。

これら三つの事例は、心理生物学的な志向性の評価の類型が、どう関わってくるかを示すためのものである。この類型をこのように強調することは、ほかの評価の類型が関係しないことを意味するべきではない。さらに評価すれば、三人のクライアント全員が、さまざまな程度の構造的・機能的な施術を必要としていたことがわかるだろう。ある評価の類型における、秩序を妨げるものは、通常、ほかのすべての類型にも、多かれ少なかれ、秩序を妨げるものとして現れる。そのため、ほとんど常に、いくつもの評価の類型と、それらの介入方法を、同時に使って施術することになると考えてよい。四つ目の事例は、実際の評価であり、すべての評価の類型が、セッションを組み立てることにどう関わりうるかを示すためのものである。

事例4:無垢なる知覚

この最後の事例は、実際の評価を単純化したものに基づいている。その目的は、実際に可能で、私たちが使える知覚の深さと種類を示すことである。しかし、この並外れた知覚の仕方をどう行うかを学ぶのは、第7章まで進んでからである。そこでは、施術者を訓練するために私が作った、簡単な3段階の方法を提示する。今はただ、この事例において、秩序を妨げるものの複雑なパターンが、すべての評価のカテゴリーにわたり、全体との関係の中で、経験豊かな施術者にどう自らを示すかを味わってほしい。この事例は、この洗練された水準で知覚するために、施術者がたどるかもしれない過程を示している。

腰痛を持つクライアントの評価を始めようとしていると想像してみよう。あなたがロルファーなら、クライアントが重力をどれほどよく自らのものとしているかを評価するため、視覚的な観察からセッションを始めるかもしれない。幾何学的、構造的、機能的、エネルギー的、心理生物学的な評価における訓練と、長年の経験によって、この種の評価に必要な知覚の技能を身につけている。彼女には、ヤン・サルタンが「外旋型」と呼んだ構造的類型の、主要な特徴が多くあることに気づく。高く硬い足のアーチ、外旋した大腿骨、後傾した骨盤、減少した脊柱の前後方向の弯曲、比較的平らな後頭部などである。評価を続けると、明瞭な中心線がなく、骨盤が右に回旋し、仙骨が両側で後方に固着し、左の腹部にストレインがあることに気づく。心理生物学的な方向づけを評価すると、彼女には地に足のついた感じがあり、自信と気楽さを持って振る舞っていることを感じ取る。同時に、胸には、引きこもる感じと悲しみを感じる。そして、頭蓋に問題があると感じるのと同時に、彼女が疲れていることに気づく。

評価から得た情報を、彼女の生きた形態についての、より身体全体に根ざした知覚へとまとめるため、あなたは、自らの方向づけを、積極的にパターンを見ることから、自分が妨げとならないようにして、クライアントの身体に、その問題を示してもらうことへと切り替える。彼女が施術台に仰向けになると、好みのヴォルト・ホールドを用いて、頭にそっと手を置き、ただ待つ。この時点でのあなたの仕事は、仕事を持たないことである。待ち、何もしない。もはや、クライアントの構造、機能、エネルギー、心理生物学的な志向性を、積極的に評価しようとはしていない。彼女をよい方向へ変えようとさえ考えない。代わりに、結果を達成し、構造を評価しようとする方向づけから、存在するものが自らを示すに任せる方向づけへと切り替える。知覚の場を広げ、自分というものを手放し、愛に満ちた空間を開くことで、ただ妨げとならないようにする。

この開かれた場の明晰さと安全さによって、クライアントの存在は、言葉なしに、その問題をあなたに明らかにすることができる。この愛に満ちた空間を作り続ける中で、あなたはしばしば、より明瞭に見るため、そしてクライアントの問題の、より多くの側面が自らを示すよう促すために、目を閉じる。さらに知覚を広げ、深めるため、頭から手を離し、自分の身体全体とエネルギー場によって、彼女の身体全体とエネルギー場を、感じて知覚する。しばらくすると、ある見え方が焦点を結び始め、ついに、統一された歪みのパターンと、その全体との関係が、初めて垣間見える。頭蓋のシャットダウン、明瞭な中心線の欠如、腹部の左下の領域の周囲で、エネルギー場が外へ膨らんでいることを知覚する。その膨らみは、下行結腸の周囲の腹膜嚢に、強く保持されたストレインを満たす、悲しみと怒りの感情に結びついている。後方に位置する仙骨と、骨盤全体の右への回旋が、より明瞭に知覚される。よくあることだが、目を閉じていると、眠りの最初の段階に入ったかのように、心が漂い始める。突然、クライアントがトラウマを受けている、強く迫るイメージが現れ、それとともに、その出来事が起きたとき、彼女は10歳だったという確信が生じる。

集めたすべての情報が、最終的に、彼女の構造的、機能的、エネルギー的、心理生物学的な存在のあり方についての、統一された知覚へとまとまったことに注意してほしい。評価の初めには、あなたは積極的に評価の過程に取り組んでいた。クライアントについて集めた情報の多くは、積極的に関わり、パターンや構造の不均衡を探したことの、直接の結果だった。たとえば、クライアントが外旋型であると、どのように見たかを思い出してほしい。内旋型と外旋型の分類を学ぶ前なら、おそらく、骨盤が後方に傾きすぎていること、腰椎と胸椎が平らすぎること、脚が外反していることなどには気づいただろう。しかし、見たものが構造全体にとって持つ意味は、つかめなかっただろう。これらの側面を、個々の構造上の珍しい特徴とみなしていたかもしれない。見ているものが、外旋型として知られる形態的類型の表現だとは、理解していなかっただろう。しかし今は、クライアントを見ると、外旋型であることが、すぐに明瞭にわかる。その結果、形態上の要請との関係において、彼女が格闘しているストレイン・パターンの複雑な広がりを理解できる。

また、感じることを通して、彼女の心理生物学的な志向性の側面を知覚し始めた。その振る舞いの自信を感じ、見ると同時に、引きこもる感じ、悲しみ、怒り、疲れ、そしてそれらの側面が頭蓋に及ぼす影響をも感じ取った。人の身のこなしと構造の情動的な意味を知覚する、この種の感じることには、感覚と認知の統合だけでなく、感じる本性の統合も必要である。諸側面を、見るだけでなく感じることもできると、クライアントの情動的、心理生物学的な方向づけを読み取る能力は、身体が示す視覚的なパターンから推論する場合より、はるかに正確になる。

続けるにつれて、あなたは、クライアントに何が起きているかを知覚するために、感覚に頼ることを減らし、感じる本性に、より多く頼るようになる。同じ情報が多く現れるが、そのより多くが、感じることを通してもたらされる。全体性を重視する施術者として知覚するものの多くが、感覚から来ることに疑いはない。しかし、すべてではない。目を使わずに見て、手を使わずに感じられることに注意してほしい。たとえば、より明瞭に知覚するために、しばしば目を閉じた。手をクライアントの頭蓋に置いている間に、下腹部と骨盤で起きていることを感じたのだから、手だけで感じていたわけではない。さらに、クライアントに触れないことで、より多くを感じられることを加えて考えれば、感覚だけで知覚していないことは明らかである。感じる本性によっても知覚している。クライアントの構造的な問題と振る舞いを、悲しみや怒りを帯びたものとして知覚するとき、あなたは、認知、感覚、感じる本性の統合を通して、見て感じているのである。

感じる本性によって知覚するとき、実際に何を経験しているのかを、もっと詳しく見てみよう。クライアントに触れていても、身体から手を離していても、存在するものが自らを示すに任せると、クライアントの身体の、問題のある場所を、自分自身の身体の中で感じることが多い。クライアントの身体に問題がある場所では、通常、自分の身体の同じ場所に、一種の圧迫感や充満感を感じる。自らを示しているものに注意を向け続けるにつれて、漠然とした圧迫感が焦点を結び始め、それを、骨盤と右膝に影響する、下行結腸の情動的、エネルギー的、構造的な歪みとして、見て感じるようになる。目を閉じれば、心の目にも、同じ歪みのパターンが見えることに気づくかもしれない。

解剖学と生理学を知るほど、クライアントの中に、より多くを知覚できる。心を開いているなら、なおさらである。解剖学をよりよく知り、情動の固着や葛藤から自由であるほど、示されているものの細部を、よりよく知覚できる。この例では、臓器の解剖学を知らなければ、漠然とした圧迫感は、腹部の左下のどこかに問題があることを示す、漠然とした圧迫感のままだろう。しかし、身体のこの領域の解剖学を知っているので、臓器を示す細部を、見て感じるのである。

まるで、エネルギー場と感じる本性が、重なり合っているかのようである。身体全体で感じるだけでなく、エネルギー場でも感じる。クライアントのエネルギーが歪んでいる場所を、自分自身のエネルギー場の中で感じる。クライアントの問題の一部である、エネルギーのパターンに親しむほど、それらをより明瞭に感じる。

目で知覚することと、感じる本性によって知覚することには、重要な違いがある。クライアントを、形態上の外旋型として知覚したとき、あなたは彼女を、自分とは異なるものとして、「あちらに」いるものとして知覚した。クライアントの構造的、エネルギー的、情動的な困難を感じたときは、これらの側面すべてを、「こちらに」、自分の内に感じた。あなたと、クライアントのこれらの側面との間には、ほとんど距離がなかった。あたかも自分自身のものであるかのように感じた。それらを知る方法は、自分の内で感じることだからであり、感じる知覚は、非二元的で、参与的であり、反省的な思考に基づかないからである。

存在するものが自らを示すに任せ続けると、歪みのパターン全体と、全体との関係が、より明瞭に焦点を結び、それを、統一されたゲシュタルトとして、見て、心に描き、感じる。クライアントには情動の問題があるため、彼女の怒りや悲しみを自分の内で感じ、それが知覚全体に浸透し、統一されたゲシュタルトの一部となる。クライアントについての知覚を構成する統一されたゲシュタルトは、認知を、感覚と感じる本性に統合した結果である。同時に、あなたは、彼女の状態を感じるため、それと一つであり、彼女はあなたではないため、その状態から分かれてもいる。同時に、クライアントの歪みを自分の内に感じ、彼女の身体の中に見る。クライアントの状態についての知覚は、自分の内にある知覚と、「あちらに」いる彼女についての知覚という、異なる二つの知覚を持つことではない。むしろ、あなたの知覚は、一つに統合された、統一的なゲシュタルトであり、そこでは、あなたはクライアントと一つであると同時に、クライアントから分かれている。

ここまで、私たちは感じる本性の表面に触れただけであり、解剖学的な身体や心のどの部分が、この種の知覚を担っているのかは、まだわからない。目でバラを知覚し、耳で音を聞き、鼻で匂いを嗅ぎ、味覚でリンゴを味わい、触覚でざらついた縁を感じる。しかし、クライアントのエネルギーや情動のパターン、全体性への妨げ、あるいは何かがおかしいということを、どの感覚、あるいはどのような感覚の組み合わせで知覚するのだろうか。この知覚系が何であれ、それは、感覚、認知、感じる本性、エネルギー場の統合からなる。脳と神経系、すなわち感覚に加えて、私たちが心と呼ぶものにも関わるはずであることは明らかだが、それらの系を超えていることも明らかである。目や耳とは異なり、特定の場所を持たない。私たちは、この知覚系は、私たちの身体=心と、その周囲の場にほかならないという結論へ導かれる。よりよい言葉がないので、これを身体場と呼ぶことができる。

結論:人間の感覚の場はどこにあるのか

知覚の座はどこにあるのか、あるいはどの系が知覚を担っているのかと問われれば、大半の人は、おそらくさほどためらわずに、感覚の場は脳と神経系であると答えるだろう。人間と、ほかの脊椎動物については、この答えは妥当に思われる。しかし、感じることへの私たちの探究は、知覚能力が、考えていたよりも大きく、広がりを持つという、驚くべき結論へ導いた。それは、感じる本性と、脳や神経系を含む身体全体を包み込むだけでなく、身体の周囲の場にまで広がっている。この観察が正しければ、人間の感覚の場は身体場であるとも、結論づけなければならない。

感じる本性は、意識のすべての状態に深く絡み合い、埋め込まれているだけではない。それはまた、すべての生き物と共有するものでもある。それは、ほかの生命、とりわけ脳も神経系も持たない生命が、自分たちの世界を知覚する仕方である。さらに、私たちが自分の内に意識として認めるものは、すべての生命が共有する、同じ感じる本性が、高度に進化して展開したものである。

感じる本性は、反省的な思考を基盤としない、非二元的で、参与的な知り方である。それは、存在のあらゆる次元と、意識のあらゆる水準に浸透し、感覚的、認知的な本性と、完全に統合されている。私たちの意識は、反省的な「私は在るという自己」に支配されているため、普段はそれに気づかないが、それは常に存在し、周囲との一体性へ私たちを導き、私たちがその一部である、より大きな感覚性の大海を明らかにしている。

議論からは二つの極端なあり方が現れた。一方では、人の世界観が、その人のソーマに根ざしうることを見た。もう一方では、人の世界観が、痛みの維持に寄与しうることを見た。前者は、身体によって維持される世界観の例、後者は、哲学によって維持される痛みの例と言える。姿勢を崩すのが怖いという事例は、よりわかりやすいものである。それは、恐れに動機づけられた理論への固執が、時間をかけて、硬直した存在のあり方を、ほとんどセメントで固めたように定着させうることを示している。私は、心理生物学的なものを特に強調しながら、評価の類型の関わりと働きを示すために、これら四つの事例を選んだ。クライアントを評価する通常の方法では、一つの類型だけを強調することはないため、四つ目の事例では、創造的で経験豊かな、全体性を重視する身体療法家が、すべての評価の類型をどう用いうるかを示した。しかし、これらすべての事例によって、プシュケーとソーマの絡み合いと、実践上、私たちの本性を、心と身体という別々の異なる二つのカテゴリーへ分けることの難しさも示唆したかった。探究のこの段階では、これらの言葉は、示唆にとどめることを意図している。私はただ、第8章で形而上学的二元論を脱構築するための種をまいているのである。第6章では、知覚の本性と、その哲学的な基盤に戻り、第7章では、知覚を訓練する3段階の方法を提示する。